池子の歴史
先土器・縄文時代 (約1万5千年前~紀元前3世紀頃)
およそ2万年前、最後の氷期をピークに地球全体が次第に暖かくなり始め、6千年ほど前の縄文時代前期には、現在よりも平均2度ほど温暖な気候であったと考えられています。そのため、大陸を覆っていた氷河が溶けて海に入り、1,000年間で10メートル以上も海面が上昇しました(これを縄文海進といいます)。
縄文末から弥生半ば頃(3~2千年前)になると、日本列島はふたたび寒冷な気候となります。縄文時代中・後期には海面が急速に後退(縄文海退)して陸地化したところに人が暮らし始めました。逗子地域の低地部は内陸まで湿地状態のところがまだ多かったようです。
気候の変化にともなって、森の植生も変化しました。それまでの豊かな恵みをもたらしたクリ、ケヤキ、クヌギ、コナラなどの落葉広葉樹林が減少して、アカガシ、モミなどの常緑樹からなる照葉樹林が優勢となってゆきました(地層中の植物化石分析などにより、確認されています)。このような自然環境の変化によって食物が減ったことで、稲作の導入が促進されたとも言われています。
池子遺跡群から先土器・縄文時代の遺物の出土はきわめて少なく、この時期に相当する遺構は検出されませんでした。それは、約6千年くらい前まで池子の丘陵下の低地は海面下であったからです。低地を調査すると基盤の土層は自然の貝を多く含む海成層となっています。
先土器時代(旧石器時代)に属する遺物は、No.1-A東地点の埋没谷から古墳時代の遺物に混じってナイフ形石器と呼んでいる石器が1点だけ出土しました。丘陵上で狩りを行っていた人達が遺していったものでしょうか。
縄文時代の遺物は、低地の自然流路から前期や中期に属する土器破片が少量摩滅した状態で出土したほか、丘陵寄りのやや高いところから、中期の土器破片が出土しています。
No.1-D地点から出土した、口の部分を欠いた勝坂式の深鉢形土器です。
中期ごろのものと思われる石棒と呼んでいる祭りに用いられた石器で、No.1-A地点の埋没谷から出土しました。
縄文時代晩期から弥生時代の始めころになると、No.1-A地点やNo.1-A南地点の旧河道の河底から土器破片が出土しています。
浮線網状文と呼んでいる文様をもつ晩期終末期の土器です。
独鈷石と呼んでいる用途不明の石器で、縄文時代晩期のものと思われます。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』より)
弥生時代 (紀元前3世紀~紀元3世紀半ば頃)
この池子地域には、いつ頃からひとが住んでいたのでしょう。
今から約二千百年前、弥生時代の半ば頃から、本格的にひとの暮らした様子がみられます。それ以前、先土器・縄文時代の遺物も発見されましたが、遺物量が少ないうえ、遺構が検出されなかったことなどから、丘陵の上など、他の場所から流入したものと思われます。
弥生時代は、日本列島のひとびとの歴史の中で、初めて農耕が生活の中心になった時代でした。もちろん縄文時代のひとびとも植物の栽培は行っていましたが、それは生活のごく一部を支えていたにすぎません。弥生時代の遺跡は、縄文時代とは異なり、川沿いの低地や谷戸の入口に近い台地に多くみられます。これは稲作と大きな関連があったためと思われます。
池子地域には、谷戸に沿って大きな河(幅8~5m、最深3m)が流れていました。その河底からは多量の遺物が、周辺のテラス部分には竪穴住居や掘立柱建物のあと、お墓などが見つかり、河を中心としたひとびとの暮らしぶりがうかがえます。
そして、弥生時代が中期から後期に移り変わる頃、洪水と思われる砂礫で、この河は一気に埋没してしまいます。弥生後期、紀元100~260年頃の遺物・遺構はほとんど発見されておらず、3世紀後半、古墳時代に新たな開発がこの地に及ぶまで、ひとびとの暮らした様子は見られませんでした。
弥生土器
「縄文土器は肉厚で装飾的、弥生土器は薄くて簡素」というのが旧来の一般的な認識ではないかと思われますが、近年の研究により、地域性、多様性が明らかになるにつれ、縄文土器と弥生土器の区別は難しくなってきました。
縄文土器と弥生土器の違いはなんでしょうか?
両者の間に大きな技術革新はありませんでした。粘土の紐を巻き上げ、或いは輪積みして基本形を作り、縄や貝殻、竹管などで文様や赤彩を施します。ロクロも窯も使わず、それを野焼きにします。こうして焼くと、温度は600~800度ほどの低温で、酸素が十分にあるので(酸化焼成)、明るい褐色になります。縄文土器と弥生土器の間には、成形や加飾法、施文具にいたるまで製作技術に根本的な変化はなかったのです。
それにもかかわらず、両者を違うものと認識するのはなぜでしょう。農耕社会の形成や、朝鮮半島から移り住んできた人たちとの交流にともない、かれらの食生活や価値観も変わっていきました。呪術的、装飾的な要素の強い縄文土器に対し、実用性、秩序が重視されるようになったことが、その様式を変化させたのかもしれません。
土器は食生活との関連が強い什器のひとつです。煮炊き用の土器が多かった縄文時代とは異なり、ものを蓄えるための壺の比率が非常に高くなりました。稲作が生活の中心になることで、食料や種籾などを蓄える容器が必要になったのでしょう。そして、貯蔵用の壺、盛りつけや供献用の高杯・鉢、煮炊き用の甕、という弥生時代の食に関する基本的な組合せができあがりました。
弥生時代は、おもに土器の様式によって、前期、中期、後期に分けられますが、前期の様子はほとんどわかっていません。池子遺跡群では、南関東地方の弥生時代中期後半に位置付けられる「宮ノ台期」にクライマックスをむかえます。土器は時期による変化と同時に、地域によっても異なるため、交流の有力な手がかりともなります。
写真は当遺跡の中心的な「宮ノ台式」土器です。上段が壷、中段左は広口壷、中段右が甕、下段左は小型鉢、下段右が高坏です。
木製品
弥生時代といえば、稲作を思い浮かべる方も多いでしょう。弥生時代の農法がどのようなものであったのかは、まだわからないことも多いのですが、かれらが多くの労働を水稲耕作にそそぎ、それを中心とした生活サイクルをおくっていたであろうことは容易に想像できます。
池子遺跡群ではっきりとした水田址は見つかっていませんが、地層中の花粉化石分析などにより、イネ科花粉の増加が認められます。また、数多くの農耕具の発見からも、弥生時代中期にこの地で稲作がおこなわれていたことはほぼ間違いないと考えられます。
しかし、稲作を生活の中心として日々たいへんな努力をしたとして、かれらはどのくらい米を食べていたのでしょうか?
歴史時代の文献資料、民俗資料、実験的方法などからすると、かなり不足していたと考えられます。まだまだそれは主食とはいえず、縄文時代同様、堅果類やイモ類、畑作物によって澱粉質を補っていたのでしょう。
それどころか、つい近年まで、一般農民が満足に米を食べられることなど、あまりなかったにもかかわらず、日本人はコメに執着し、それに夢を託してきたのです。
No.1-A地点を中心とする弥生時代の旧河道から、大量の木製品が発見されました。弥生時代中期後半の木製品は神奈川県内でも最初の発見例で、質・量ともに関東全体でも代表的なもののひとつに数えられています。
二千年前の木製品が、なぜ腐らなかったのでしょう。木や布などの有機物は、通常とても腐りやすいものですが、極端な乾燥あるいは湿潤などの条件のもとでは保存される場合があります。池子の場合、低湿地であったことが幸いし、粘土層や水によって真空状態が保たれたため、たいへん良い状態で残っていました。
農耕具である鍬や鋤も多く出土しています。鍬は刃と柄が直角、鋤はスコップ状に刃と柄が真っ直ぐになっているものをいいます。鍬は刃と柄が組合せ式になっており、鋤は一木で仕上げたものと組合せ式のものがあります。刃先が分かれたもの、幅広のものなど、種類も豊富です。
写真の下3点は機織りの道具です。弥生人はどのような衣装を身につけていたのでしょう。古代人の衣服については、資料も非常に少なく、知るのがたいへんむずかしいテーマです。機織具が出土していることから、池子のひとびとは麻や木綿の布製の簡単な衣服を身につけていたと考えられます。
骨角牙製品
弥生時代には水田稲作が生活の中心になったとはいえ、それだけで充分な食糧が得られたわけではありません。縄文時代と同様に、狩りや漁、木の実の採集などもおこなわれていました。
写真上はヤス、モリ、離頭モリ、釣針などの漁労具です。ヤスの突き刺さったイルカの頭骨も見つかっており、海獣や海の魚、貝、川魚など、多種類のものを捕獲していたことがわかります。
出土した獣骨から、鹿や猪などが狩猟の対象となっていたことがわかります。その肉を食すだけでなく、獣骨、牙、角は、狩猟具、漁労具、装身具、神儀具などとして利用されました。
写真は左2点がY字型柄頭状製品、右上は垂飾り、かんざしなどの装身具です。下は左から鹿角製紡錘車、鮫の歯の垂飾り、鯨の歯の垂飾りです。
卜骨・石製品
弥生時代のひとびとの生活は、自然の力の影響を受けやすい、とても不安定なものでした。そのため、豊かな恵みを祈り、自然や命を敬畏する呪術や祭りごとはたいへん重要であったことでしょう。
鹿や猪の肩胛骨を焼いて吉凶を占う卜骨(ぼっこつ)が数多く出土しています。農作物の豊凶や病気、晴雨など多方面にわたって占うものです。この風習は太占(ふとまに)として、現代でも神社行事に残っています。
大量の木製品を製作するためには、それを加工する工具が必要です。池子遺跡でも、木製の柄に石製の斧を装着する石斧が多く見つかりました。
写真はどれも、きれいに磨き上げられた磨製石斧といわれるものです。材木を伐採し、荒割りするための大型のものから、削る、抉るといった小さな細工に適したものまで、用途に応じて大きさも形状もさまざまです。
(写真:1999年3月『池子遺跡群 総集編』かながわ考古学財団 ※いずれもNo.1-A地点 旧河道出土)
古墳時代 (3世紀後半~7世紀頃)
弥生時代後期から古墳時代にかけて、ムラのひとびとをまとめる長たちは、盛り土をもった特別な墓をつくるようになりました。当時の指導者は司祭者としての性格を残していたといわれています。ひとびとは地域の長のもと、祭りごとをおこない、耕地として谷戸の開発を進めてゆきました。
池子遺跡群でも、古墳時代前期には調査区全体に人々の生活の跡が見られるようになります。弥生時代の遺構・遺物がほとんどみられなかった地点からも、多くの竪穴住居址・溝・土器溜り、多数の土師器や木製品などが出土しました。
古墳時代中期には遺構・遺物とも前期に比べて減少し、遺跡群の規模が一旦縮小されます。神奈川県内では古墳時代中期の遺跡数が減少し遺跡の規模も小規模になる傾向が今までの発掘調査で明かにされていますが、池子遺跡群でも同じ様な傾向が確認されました。
古墳時代後期になると、遺跡群全体で遺構の数・遺物の出土量が増加します。多くの掘立柱建物址が発見され、溝などの遺構から木製品や土器が出土しました。
池子遺跡群では古墳は見つかっていませんが、方形周溝墓と呼ばれる方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらせた墓が確認されています。写真のものは周溝が四隅で切れているタイプです。
盛土や主体部は、後世の削平などにより確認できませんでしたが、特定の人物やその近親者が葬られていると考えられます。まわりの溝からはたくさんの土器が出土しました。
この時代の素焼きの土器を土師器といいます。縄文・弥生土器の流れをくむもので、屋外で薪を燃やして野焼きしたものです。酸素が供給される酸化炎燃焼(600~800度)のため、赤みを帯びています。土師器は、数百年にわたり日常の器として作られ続けました。
古墳時代中期、5世紀ころになると、中国や朝鮮半島から本格的な窯で焼く、須恵器の技術が伝えられました。ロクロを使い、登り窯と呼ばれる半地下式窯で高温(約1,100度)で焼きしめるので、還元作用により青灰色がかった硬質の土器ができます。当初はおもに祭りごとなどに使われましたが、後には日常の器としても使われるようになりました。
遺跡群の南側の竪穴住居址からは銅鏡片や金属製品などが見つかりました。左から銅鏡、銅鏃、鉄鏃です。
鏡は重さ7.6g、3cmほどの破片ですが、他の類例から推定して、右下図のような直径10cmほどの内行花文鏡と呼ばれるものと考えられます。竪穴住居址から鏡が見つかることは稀で、神奈川県で2例目です。
内行花文鏡は中国の後漢で制作されたものが日本に持ち込まれ、国内でそれを真似て作るようになりました。関東地方の集落から出土する破鏡は日本製である場合が多いのですが、これは、鉛の含有量、厚さ、形態などから、中国から運ばれた舶載鏡だと思われます。
どのような経路を辿って、この鏡が池子の地まで運ばれてきたのか、たいへん興味深いところですが、この難問はいまだ解かれていません。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』)
奈良・平安時代 (8~12世紀頃)
奈良・平安時代はおよそ8世紀から12世紀までの500年間です。中央政府のある平城京や平安京では律令制度のもと、政治・経済・文化の各方面で一定の完成を見た時代でした。しかし一方で、特に関東地方を中心に武士団が発生し、この新しい階級の足音は次第に中央政府を脅かすほどになっていきました。
当時、相模国には8つの郡が設置されましたが、ここ逗子市は鎌倉郡に属していました。鎌倉郡の郡衙(郡役所)は現在の鎌倉市御成町(今小路西遺跡)にありました。天平勝宝元年(749年)に郡衙を通じて朝廷に税として納められた布が今も東大寺の正倉院に残されています。そこには、この布が相模国鎌倉郡沼浜郷から納められたものであることが記されていました。
また、平安時代の『倭名類聚抄』には鎌倉郡に「沼浜郷」の存在が記されています。沼浜郷は現在の逗子市のほぼ全域に当たると推定され、沼浜の名は現在の沼間(池子の南東隣)にその名をとどめています。
沼間3丁目遺跡群(菅ヶ谷台地遺跡 逗子市No.72・沼間ポンプ場南台地遺跡 逗子市No.37)では、3.5~4m四方の奈良・平安時代の竪穴住居址が20数軒確認されています。市内で発見されている当時の集落としては規模が大きいことや、周囲に古代集落が点在することなどから、これまで、現在の沼間付近が郷の中心と考えられていました。しかし、この地域が標高の高い丘陵上であること、また、2001年7月~2002年3月の調査で延命寺遺跡(逗子4丁目、逗子市No.110)から古代の建物址や井戸址が検出されたことなどにより、逗子市域の古代史観に新しい可能性が生まれてきました。
池子遺跡群からも竪穴住居・掘立柱建物・井戸・溝など、奈良・平安時代の遺構が見つかっています。
住居址は約3m四方の正方形のものが多く、小さな谷戸やその出口付近から14軒ほど確認できましたが、大規模な集落ではなかったようです。
しかし、調査区南西部の埋没谷からは、和同開珎・隆平永寳(皇朝十二銭の一番目と四番目)や鏡などの金属製品、木製の靴(木履・ぼくり)や馬の鞍の後輪(しずわ)などの木製品が出土しており、注目に値します。
木履は全長25cm、内法22.5cmです。女性用でしょうか?残念ながら片足分しか見つかりませんでした。
和同開珎は神奈川県で6枚目、隆平永宝は7枚目の出土例になります。
また、位をもつ人が着用した帯金具の丸鞆(まるとも)や巡方(じゅんぽう)、墨書土器(文字が記された土器)なども見つかっています。
それらは官人に関係するものであることから、この時代の池子には、官人あるいはかなり有力な農民層が住んでいたと考えられます。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』)
中世 (12世紀後半~16世紀後半頃)
平安時代後期、東国では土豪たちが武士団として組織化され、力をもつようになりました。12世紀末に源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、日本の政治は鎌倉幕府と京都の朝廷に二元化されました。
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた天然の要塞で、以後は武家政権の本拠地として発展し、13世紀中頃から多くの人や物資が流れ込んで都市としての隆盛を極め、1333年の鎌倉幕府滅亡後も関東経営の中枢として15世紀中頃まで栄えました。
なかでも「名越切通」と「和賀江島」は、鎌倉市と逗子市にまたがる中世の国指定史跡です。鎌倉に入るには周囲に設けられた7つの切通しを通らなければなりませんでした。その一つである「名越切通」は現在も旧状をよくとどめ、現在、逗子市が保存整備を進めています。
また、現存する日本最古の築港址「和賀江島」は西国との交易の窓口として、多くの陶磁器をはじめとする物資がもたらされました。また、遠く朝鮮・中国(宋・元)へも通ずる鎌倉の玄関口でもあったのです。
中世の池子を物語る文献史料は少ないですが、戦国時代に後北条氏がまとめた『小田原衆所領役帳』によれば、何時の頃からか不明ですが、池子は鎌倉の泰平寺(太平寺)領であったことが、また近世には水戸徳川家ゆかりの英勝寺領として、他の村々とはやや別格に扱われていたことが知られています。
鎌倉時代の遺構・遺物はあまり多くありません。旧池子川の東側で、12世紀末~13世紀前半の柱穴群(掘立柱建物址群)、井戸址、溝状遺構などが見つかっています。
これらはいずれも規模が大きくない居住施設と思われますが、比較的暮らしやすい山裾の小高い部分を生活の場としていたことがわかります。
鎌倉時代の後半、13世紀半ば~14世紀前半にかけては、明確な居住関連の遺構は発見されていません。
この時期、お隣の鎌倉市内においては膨大な量の遺構・遺物が発見され、都市として最も繁栄した時期ですが、ひと山を隔てただけで遺構・遺物の量がこれほど違うものなのかと驚くほど激減しています。この時期の池子の情勢を物語る古文書などの史料がないため、詳しいことは判りませんが、古代以来の、鎌倉郡の一部としての政治的一体性がほぼ失われ、経済的にもいわば都市近郊の一般的な村落の一つとなっていたものと推測されます。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』より)
「やぐら」について (13世紀後半~16世紀頃)
鎌倉の街を歩くと、お寺や民家の裏山が切り立った崖になっていて、四角い穴がいくつも開いているのを見ることができます。中には戦時中に掘られた防空壕もありますが、多くは鎌倉時代後期から室町時代に穿たれた「やぐら」です。最近は崖をコンクリートで完全に固めてしまう所が多く、目にする機会も少なくなりつつあるのは寂しい限りです。
「やぐら」とは、鎌倉後期に都市鎌倉から「発祥」したもので、おもに山裾や中腹の岩の崖面に四角い横穴を掘り、荼毘に付したお骨を納め、五輪塔などの石塔を建立し、仏の結縁を願い求める葬送供養の場と言えましょう。その意味で、単純に「お墓」と考えるより、宗教施設と見るほうが適切です。被葬者は武士や僧侶ばかりでなく、有力な都市民が多数含まれていたものと考えられます。「発祥」とカッコ付きで書いたのは、こうした岩窟の起源を、禅宗や律宗寺院を核として当時鎌倉と文化的経済的交流の深かった南宋(中国)に求めることができるのではないかと考えられるからです。
「やぐら」の数は鎌倉市内に2千とも3千とも言われますが、分布を含めて正確にははわかっていません。しかし、その多くは寺院(廃寺を含む)の分布と符合するようです。また、鎌倉地方に特有な遺構だと言われてきましたが、近年では房総半島はもとより、東北、北陸、九州など、各地の鎌倉と関連の深い地域を中心に分布していることが知られるようになってきています。
逗子市域においては、国史跡名越切通の内、都市鎌倉の境界領域の山稜部に150余の石窟を穿つ「まんだら堂やぐら群」や、古代以来の山岳寺院・神武寺の境内域に立地する「こんぴら山やぐら群」、「みろくやぐら群」などがよく知られていますが、その他にも久木四・五丁目付近、沼間二丁目付近および池子地区内に比較的まとまって分布しています。
通常、「やぐら」の発掘調査は、急傾斜地の防災工事のため崖面をコンクリート擁壁で覆ってしまう前に行うものがほとんどです。そのため、「やぐら」そのものは調査できても、前面平場を平面的に発掘することは、まずありません。その点において、「やぐら」を含め、前に広がる谷戸を全面的に発掘調査することができた池子の成果は、他に類例がなく貴重なものと言えます。
池子の「やぐら」は、No.11~19地点で調査されました。後世に倉庫や防空壕などに用いるため、姿かたちを変えられ、「やぐら」としての本来の状況を窺い知ることのできないものが多かったのですが、No.15地点などでは、内部に五輪塔を建て、供養の祭祀に用いられたと思われるかわらけが散乱している良好な遺存例もありました。
鎌倉市内に見られる寺院境内の「やぐら」の多くは、ある中心的な施設(塔頭など)を核として濃密に群集することが知られています。しかし、池子の「やぐら」群の分布は比較的散漫です。寺院の「やぐら」群の前面平場には関連するお堂などがあったと推測されていますが、池子の「やぐら」群には付帯する建物の痕跡は見出せませんでした。このように、池子地区内には明確な寺院の痕跡はなく、これらの「やぐら」群が鎌倉市内のように直接寺院との関連を思わせるような状況にはありません。
そのようなことから、池子の「やぐら」群の位置付けは非常に難しいものとなりますが、都市鎌倉の近郊に位置する村落における「やぐら」の存在形態を考える上で価値の高い資料であることは変わりありません。
また、No.15地点の「やぐら」の前面はNo.7地点ですが、ここでは戦国時代から近世以降の土壙墓群が発見されした。「やぐら」群と土壙墓群の関係を解明するのはこれまた困難ですが、中世から近世にかけての葬送供養の具体的な様相を知るうえで欠くことのできない貴重な成果と言えましょう。
(写真:1999年3月『池子遺跡群 総集編』かながわ考古学財団)
近世 (16世紀末~19世紀後半頃)
中世の後半から各地で戦いが繰り広げられ、戦国時代とよばれる時代がはじまります。市域は関東の有力な大名である小田原の北条氏(後北条氏)によって支配されていました。1590(天正18)年に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、関東の大部分は家臣の徳川家康の支配下におかれました。
このころから、戦乱に翻弄されてきたひとびとの生活は、しだいに落ち着きを取り戻してゆきました。封建領主は検地を行い、村を単位として領地と農民を支配し、納められた年貢を基盤として、近世封建制社会を築いてゆきます。
秀吉の死後、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を開いて全国を支配するようになりました。長い戦いの時代は終わり、この後約260年の間、幕藩体制とよばれる政治的に安定した時代が続くことになります。
近世は、封建領主の農民支配をはじめとして、支配階級のあいだで、多くの文書が作成された時代でもありました。地所を把握するための絵図、年貢の徴収に関する台帳、通知書から官僚間の伝達、報告、資料など、文書の量がそれ以前にくらべて飛躍的に増えました。
ここ池子にも『文禄の水帳』と通称される検地帳が旧家の石渡家に残されていました。領地面積の測量、家数・人口の調査、生産高などを記録したものが水帳、地検帳と呼ばれるものです。
池子村も、後北条氏の滅亡によって、泰平寺の寺領から徳川の直轄領になります。その後、3代将軍家光の頃に鎌倉の尼寺、英勝寺の領地となり、明治4年(1871年)まで続いたと考えられます。英勝寺は水戸家ゆかりの格の高いお寺です。
同じく石渡家に伝わる「相州三浦郡池子村絵図」は『水帳』とともに、池子の近世を考える上でたいへん重要な文献資料です。これらをはじめとする近世文書の詳細な研究と、池子遺跡群の発掘成果を相互に照らし合わせてゆくと、池子に暮らした人々の生活の変遷を具体的に垣間見ることができるようになってきました。
それらの文献資料に基づいて、慎重に発掘調査をすすめると、調査区中央部のNo.1-C・1-E・5・7地点から、集中的に近世の建物址が見つかりました。
そこからは陶磁器をはじめとして、木製品や漆製品などの遺物がたいへん豊富に発見されました。
上の写真はNo.1-E地点出土の近世陶磁器です。皿・小鉢・徳利・盃などの食器類、灯明皿、香炉・仏飯碗などの仏具類、擂鉢などがあります。
磁器は肥前系、陶器は瀬戸・美濃系の製品が多く、日常使いの器が中心ですが、天目・織部・志野織部・黄瀬戸など、茶器の類も少量出土しています。
中世末に登場した家々は、その後、近世から近代にかけて多少の変化を見せながらも代々営まれ、昭和の接収まで続いたものと見られます。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』より)
近・現代 (19世紀後半以降)
池子地区は昭和12年(1937)に旧日本帝国海軍の弾薬庫として接収が始まり、戦後は引き続きアメリカ海軍が使用してきました。1978年に弾薬庫としての役目を終えますが、80年に米軍家族住宅の建設予定が公表されると、みなさんご存知の通り、15年間に渡って容認・反対の住民運動が続きました。
1994年に緑を守る約束で合意し、現在に至っています。60年もの間、一般の立ち入りが厳しく制限されていたため、発掘調査では明治から海軍接収までに渡る近代の遺構・遺物が多く発見されました。弾薬庫造成にともなう大量の排出土に埋もれて、接収直前までの人々の生活のあとがほとんど破壊されることなく良好な状態で保存されていたのです。
発見された遺構は建物址・井戸址・道路状遺構・旧河道・畝状遺構・墓地・溝などです。
近代の建築物は周辺の岩盤から取った切石や土丹(どたん・岩盤を砕いたもの)を利用して造られているのが特徴です。
建物址の基礎に切石を礎石としているもののほか、建物の形にあわせて方形に溝を掘り、そこに土丹を敷き詰めているものもあります。明治から昭和初年頃まで、この地域によく見られた建物の基礎構造で、土丹地業と呼ばれています。
近代の遺物は、特に建物址周辺と旧河道の中から大量に発見されました。これらの遺物の多くは、海軍接収直前まで池子で暮らしていた人々の日常生活に使われた道具でした。
ハーモニカや三角定規・コンパス・紙挟みといった文房具類、櫛や簪(かんざし)・眼鏡のフレームなどの日用品、ガラス製品(インク瓶・目薬の容器など)、陶磁器類(徳利・茶碗など)、ガラス製の石蹴り玩具、陶製の人形など、多くの遺物が出土しました。
(写真:1995かながわ考古学財団『甦る池子の歴史』より)
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