2002年 被爆体験講話

ページ番号1002452  更新日 2023年3月1日

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2002年(平成14年)ピースメッセンジャー in 広島

写真:寺本貴司さんによる被爆体験講話

寺本貴司さんの講話
小学校5年生であった10歳の時、爆心地から1Km離れた自宅で疎開先の友人に手紙を書こうと机に向かっていたときに被爆した。


昭和20年4月、小学校では集団疎開が実施され、私も疎開をした。一番困ったのは食べ物がないことで、米がないため、大豆、イモ、大根などを食べていたが、すぐにお腹がへった。ある日、竹の皮に包まれたおにぎりを3ついただいた。1つ食べたらお腹が落ち着いたので、先程まで一緒にいた同級生にも食べさせてあげようと思ったが、結局ひとりで食べてしまった。悪いことをしたととても後悔した。後でわかったことだが、その同級生は原爆孤児になってしまった。振り返って思うととてもいやな思い出である。

8月に入り疎開先で病気になったので、広島市内の実家に戻って治療をすることになった。母が8月4日に迎えにきたが8月5日は日曜日のため、他の生徒に見られたらうらやましがられせることになるので、6日に戻ることをすすめられた。しかし私は少しでも早く帰りたかったので、わがままを言って4日の夕方に戻ることになった。

写真:市内地図を使って当時の様子を説明(被爆体験講話)

母は原爆で亡くなった。
もし8月6日に戻ることにしていれば・・・。

  1. 核兵器はもともと全滅させるためのもの。
  2. 人間らしく死ぬことも、生きることもできない。
  3. 人間として認めることの出来ない絶対悪である。

8月6日
午前7時9分 警戒警報発令
午前7時31分 解除


私は近所の子どもと外で遊んでいたが、病院にいくため家に戻った。家の裏にある机で疎開先に手紙を書いていた。
その時、「ピカッ」と光ったので振り向いた。
辺りは真っ暗になり上から物が落ちてきた。

痛いとは感じなかった。土壁のほこりくさい匂いを感じた。
しばらくの間、その場にしゃがみこんでいた。

明るい方へ行ってみると、シャツはボロボロ、家は崩れてガレキの山、道には近所のおばさんが立っていた。
顔が血だらけなので、誰だかわからなかったらしく「あんただれ?」と聞かれたので「貴司です」と答えた。

家の中にいたため熱線は受けていないのでヤケドはないが、頭と顔が傷だらけ、血だらけで背骨が圧迫骨折していた。
おばさんにおぶってもらい逃げるところで、「お母さんがいない」と泣き叫んだが、「捜してあげるから」と言われおばさんと逃げた。逃げている最中にガレキの山から顔だけ出し、目だけをきょろきょろしていた女の人がいた。物の下敷きになった人が多かった。学校の後輩も下敷きになり亡くなった。

しばらくすると「黒い雨」が降りだした。
おばさんたちが私を避難させてくれた場所が、応急的に屋根をつくってあった場所だったので、「黒い雨」にもあたらなかった。しかし、背負ってくれたおばさんや屋根をつくっていた人は「黒い雨」にあたっていた。

一緒に逃げた人たち皆2,3ヶ月で亡くなった。
私の命は、おばさんたちに与えられたもの。

母は家の下敷きになっていたところ近所の人に助けられた。母は横川橋まで逃げ、河原で寝ていたところを姉が母を探しあてた。足首にヤケドを負っていただけだったが、だんだん衰弱し、8月15日夕方亡くなった。

ある日突然、罪のない子どもやおじいさんやおばあさんが無差別に殺されてしまう。
このような核兵器はあってはならない。
私自身、私の小さな力が何の役に立つのか、いつも考えていた。
では、私たちは平和のために何をすればよいか。

それは「弱者をいたわる」、「老人をいたわる」、「いじめない」、「差別しない」など自分の身近なごくささいなことから平和を築いていくことが大切である。

そして、たとえ小さな力であっても皆がそれを考えて積み重ね、寄せ集めることで、大きな平和につながっていく・・・。

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