被爆証言 堤 達生さん

ページ番号1002447  更新日 2023年3月1日

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疎開をしていた広島の大伯父の家で被爆した。そこは、爆心地から1.5kmしか離れていないところだった。

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広島平和記念資料館所蔵

写真:堤さん
昭和19年当時の堤さん

私の被爆体験 堤達生

そのとき、爆心地から1.5キロの千田町1丁目に住んでいました。前年の夏休みに東京市中野区桃園第3国民学校から、単身縁故疎開でそこへきていたのである。政府の方針で決まった学童疎開は3年生以上が対象であるが、集団疎開か縁故疎開かの選択肢があった。私は迷った末、父母の生まれ故郷である広島市への縁故疎開を選んだ。

昭和20年に入ると太平洋の島々を次々と占領した米軍は日本本土に空から襲いかかってくる。空襲は大都市から中小都市へおよんできた。在学していた広島市大手町国民学校でも、春ごろ県内の田舎への疎開が始まる。私にとっては再疎開となるが、先生の勧めがあったものの、なぜか気が進まず8月になってもぐずぐずしていた。5年生であったが、クラスの中でまだ数人が残留していた。空襲は真上から受けなければ大丈夫などと高をくくっていた。

8月は本来夏休みのはずであったが、その年は夏休みがまだ始まっていなかった。しかし、学校に行っても授業はなく、校庭を耕し、通りから牛糞を拾ってきて肥料にし、芋の苗を植えたり、ポプラを切って枝を落とし木刀にしたりしていたのである。当時は米軍の上陸に備えて木刀で対抗しようなんていう、あとから考えると、おとぎ噺のような話が教師から言われていた。8月5日、隣家に住む中学生の従兄弟と木陰で話をして「夏休みだから学校に行くことないよ」とか、従兄弟の勤労動員の話、あるいは戦争は太平洋の島々が次々と玉砕し、陥落していたので「これで勝てるのか」、「米軍が上陸したらどうなるんだ」など、不安で、希望のない、お先真っ暗な話をしていた。

8月6日は、近所の日本赤十字病院を火災の類焼から守るため、その周りの民家を強制的に壊すという、いわゆる家屋疎開の作業の真っ最中だった。壊した家屋の跡片付けをするため、隣組の指令で各家庭から1名づつの割当てで作業に駆り出されることになっている。私は、母方の祖父の兄である元陸軍の師団長をしていた大伯父と、その妻の大伯母のお宅にお世話になっていたが、二人ともお年寄りなので、廃材の跡片付けは私が一家の代表で出ることになった。

朝からカンカン照りのその日、8時ごろ家から徒歩で4、5分の現場へ行くと、すでに隣家に住む母の姉が来て作業をしている。着くとすぐに伯母は私に廃材の入れ物である笊を家から持って来なさいと命じた。当時は物資不足で、家屋を壊した廃材を風呂炊き用の薪として貰えるということである。私は来たばかりで面倒とは思ったが、しかたなく笊をとりに家に帰った。

家に戻り、大伯母に笊を取りに帰ったことを告げると、裏に回りなさいと言われ、裏木戸から入って裏庭に回る。建物がコの字形に取り巻いているその裏庭の庇の下で、大伯母が物置から笊を持ってくるのを待っていたときだ。ブーンという爆音がしたので、空を見上げた瞬間、あたり全体を覆いつくすような猛烈な爆発音がした。ドーンでもない、ガ-ンでもない、想像を絶する、言葉で表現できない音だった。その音の中に自分がいたのだ。瞬間的に勝手口へ逃げ込んだ。逃げ込んだのか、爆風で吹き飛ばされたのか定かでないが、体を曲げ、上半身を伏せていた。大伯母が私の上から覆いかぶさってくれていた。

しばらくは爆風のすさまじい風と、瓦や壊れた家屋の破片のようなものが猛烈な勢いで空中を舞っていた。例えていえば竜巻の中心にいるような状況であったのか。大伯母は「頭を上げては駄目」と上を見上げた私を叱りつけた。伏せている間、もう死ぬ、もう死ぬと思っていた。

何十秒か1分以上経っていたのか。爆風がこやみになったので身を起こしてみると、わが家は天井が落ち、ガラスは飛び散り、壁は落ち、戸は倒れ、それでもH形に建てられた比較的新しい頑丈な家だったので、土台と柱は原形のまま保たれている。しかし外へ出てみると、近所の家々は家屋全体が傾いていたり、崩れて倒れたりしている。あまりの凄さにしばらくは呆然としていた。いつの間にか空は曇っている。わが家は路地の突き当たりになっていて、路地の両側に長屋あるいは一軒家の家作を持っていた。普段からそこに住む人たちと交際があったが、その家々から誰も出てこない。シーンとしている。どうしたのだろう。

そのとき、大伯母にこんなことを言ったのを覚えている。「これ何」「爆弾よ」大伯母は簡単に答えた。自分も爆弾が落ちたということが分からなかったわけではない。だが、現実に爆弾が落ち、そのすさまじい破壊のありさまに仰天し、これが現実のものなのか、夢を見ているのではないか、そんな気持ちで大伯母に確かめたのかもしれない。また、一回の爆弾で隣近所周囲がこれほど、ことごとく破壊されるものなのか、疑問を感じてもいた。子供とはいえ当時の国民学校生は爆弾について、焼夷弾について、空襲の時の避難の仕方などについて教えられていたのである。想像していた空襲と全然違うこ光景に我を失っていた。

そのうちに、倒れた家々から火の手が上がってきた。おそらく家が壊れ、下敷きになって動けなくなり、炊事の火を消せなくなったのではないか。ぐずぐずしてはいられない。火事に巻き込まれてしまう。大伯母は私に言った。「長靴を履いて早う逃げんさい。私はおじいさんを助けなければならないから。海の方へ逃げるのよ」海の方へ逃げるというのは前々から決めていたことである。長靴を履けというのは倒れた家々のために路地がふさがっているので、通りへ出るにはその上を乗り越えて行かなければならず、運動靴では危険だからだ。私は壊れた下駄箱から長靴を引っ張り出した。それまで、避難訓練とか何回かの空襲警報があって、その都度衣料品、学用品の入ったカバンを持って、共同防空壕へ避難した。一緒に避難した人たちに小さいのにエライわね、などと言われもした。が、驚天動地で持っていくものなど全然忘れ、着のみ着のままで自分の家から離れた。

鷹の橋電停から南大橋へ通じる広い道路へ出てみると、驚いたことに、衣服が焼け、皮膚が剥けてボロのようにぶらさがり、黙々と海の方向へ逃げていく見知らぬ人々がいる。この人たちはどこから来たのだろう。どこに居たのだろう。まるで、別の世界から来た人間のようだ。さっきの爆弾でこんなに遠くの人たちも被害に遭っているのか。現実とは思えない白昼夢を見る思いだった。この光景は、戦後、話でいろいろと伝えられ、絵にも描かれているとおりの有様だったのである。南大橋まで来てみると、橋は半分崩れており、渡るのは危険だと迷ったが、迷っている余裕はなかった。火が近づいてくると危険だ。吉島海岸へ行くには渡らなければならなかった。

途中、空襲警報が鳴ったのか、敵機の爆音がしたのか、それとも黒い雨が降ったための雨宿りであったのかは覚えていないが、防空壕へ避難した。当時はあちこちに防空壕があった。やや落ち着くと、頭から顔を経て白いシャツが帯状になって真っ赤に染まり、体にくっつくほどの血が流れていることに気がついた。おそらく爆風で頭に瓦のようなものがあたったのであろう。黒い雨はいっとき降った。防空壕を出ると、晴天が戻っている。さらに海の方へ逃げ、吉島海岸まで辿り着いた。

海岸のよしずばりの海の家では、怪我人が十数人寝かされていて「水」「水」と哀願していた。どこかのおばさんがやかんの水を与えている。自分も水が欲しくなり、水を飲ませてもらうと、海水だった。市街の方を振り返ってみると方々で大きな火災が起こっており、時々爆発音が聞こえてくる。おそらく、工場で何かに引火しての爆発音ではなかったか。市街へ戻れる状況ではない。暑い海岸でしばらく海に浸かったり、血で汚れたシャツを洗ったりしていたのを覚えている。

広島市へ縁故疎開して1年、10歳だった私は、家族とは別れて寂しかったが、邸宅ともいえる大きな家に住み、大伯父、大伯母あるいは母親の親戚の人たちに囲まれ、東京よりも食糧事情の良いここで過ごしたいままでは、ある意味でたのしい日々だった。だが、今日の出来事ですっかり変わってしまった。そのとき、朝から数時間もいたそこで、こんなことを考え、茫然としていたのだろうか。

夕方になり火事はようやく下火になってきた。大伯父と大伯母はどうしただろう。お腹が空くし、このまま海岸にいても何もない、しっかりしなきゃと思い、千田町の方へ戻ることにした。途中、全壊または半壊状態の家々が続く。ある半壊の家で誰も居ないのを幸い、戸棚の中にあって埃とガラスの破片が被っているカレーライスを見つけ、埃とガラスを手で除けて、つまみ食いした。

南大橋は今度は崩れそうな橋を渡るのを避け、川を渡った。あたり一帯はところどころに火がくすぶっているだけで、焼け野原になっている。やはり、焼けてしまったか。だが、橋のそばの空き地に来ると、千田町の人々の炊き出しの場所になっていた。今朝、生き残った人達がやっているのだろう。その中で1丁目と表示された場所をさがし、そこに割り込んでようやくおにぎりにありついてほっとした。知らない人たちだったが、親切な家族がいて、その夜は急造の掘っ立て小屋に泊めてくれた。そのとき、親切な人たちの好意にすがり、とりあえず大人に頼って生きるしかないと、子供心に考えていたと思う。

掘っ立て小屋で一夜を明かした私は、捜しに来た従兄弟と巡り合い、わが家へ行った。怪我をした大伯父と大伯母は遠くへ逃げることが出来なかったが、日赤病院のそばで何人かと火を避けていたようで無事だった。しかし家は丸焼けで何も残っていない。一部が燻っているだけだ。大伯父と大伯母はとりあえず家のそばの大きな防空壕で生活することになったが、私と従兄弟は広島市郊外の草津町にある遠い親戚を頼ることになった。千田町から市街を横断して、己斐駅まで歩いた。途中、建物は殆ど焼け落ち、一昨日まで慣れ親しんだ街が見る影も無くなっている。電線がぶら下がっている電車通りを避け、川ふちを歩くと、黒焦げの死体が裸で、あるいは筵を掛けて累々と横たえられている。一様に体は真っ黒で、歯だけが真っ白だ。

草津町の親戚で終戦を迎えた私は、大火傷を負って市内のある国民学校の踊り場に寝かされている伯母を見舞った。元気で私を可愛がってくれた伯母は、家屋疎開の現場で全身に熱線を浴びた。伯母は私にこう言った。

「あんたは私の身代わりになって助かったんよ」

私は何も答えることができなかった。

平成14年、逗子市のピースメッセンジャーに同行して広島に行った私は、中学生と共に平和記念資料館を見学した。市民が描いた原爆の絵が展示されている。何枚目かを見た後、ひとつの絵の説明が目に入った。「これは被爆直後の大手町国民学校の様子です」と書かれている。絵を見て愕然とした。学校の校庭らしいところに子供が数十人同じ方向を向いて倒れ、校舎が恐ろしい勢いで燃え上がっている。その時から57年、母校のこの時の様子が初めて分かった。

これより前、平成8年、会社を定年退職したのを機会に、私は核兵器廃絶と被爆者の福祉に努力している先輩に敬意を表して被爆者会に入った。その中で逗子市のピースメッセンジャー事業、小中学校での被爆体験の話、原爆展、あるいは被爆証言の朗読劇などに参加して、核兵器の恐ろしさを伝え、平和の尊さを訴える活動をしています。

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