2004年 被爆体験講話

ページ番号1002451  更新日 2023年3月1日

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2004年(平成16年)ピースメッセンジャー in 広島

寺本貴司さんの講話
小学校5年生であった10歳の時、爆心地から1km離れた自宅で疎開先の友人に手紙を書こうと机に向かっていたときに被爆した。

写真:寺本貴司さんによる被爆体験講話

写真:市内地図を使って当時の様子を説明(被爆体験講話)


昭和20年4月、通っていた小学校の先生、身の回りの世話をしてくれるお姉さん、そして生徒約30名で集団疎開をした。
疎開中、一番つらかったのは食べ物がなかったことで、いつもお腹をすかせていた。茶碗一杯分の大豆、イモ混じりのご飯だけでは足りず、山にある木の新芽を食べたりもした。

8月に入り、疎開先で病気になったので、広島市内の実家に戻って治療することになった。母が8月4日に迎えにきたが、翌日(8月5日)が日曜日だったため、他の疎開中の子供たちがうらやましがるといけないので、翌々日の8月6日に戻ることを先生にすすめられた。しかし私は、少しでも早く帰りたかったので、母にせがんで8月4日の夕方に戻ることになった。

母は原爆で亡くなった。自分が無理を言わなければ、
母は被爆せずにすみ、亡くなることもなかったかもしれない。

8月6日
午前7時9分 警戒警報発令
午前7時31分 解除


今、振り返れば、この警報は原爆搭載機(「エノラ・ゲイ」)の前に広島上空の天気を確認する偵察機を警戒したものだったと思う。

その朝、私は外で近所の友達と遊んでいた。「病院に行くので支度するように」と母に呼ばれて、8時ごろ家に戻った。そして、居間で疎開先の友達に手紙を書こうと机に向かったその時、背後にものすごい光を感じ、振り返った。そして、その場にしゃがみこんだ。原爆のことを通称「ピカドン」と呼ぶが、私は「ドン」という爆音はあまり覚えていない。

しばらくして、ボーっと辺りが明るくなてきたので、立ち上がり外に出た。家の中にいたため熱線を受けることなく、ヤケドせずにすんだが、頭と顔に傷を負い、血だらけになっていた。

「お母さんがいない」と泣き叫んだが、「あとで探してあげるから」と背中におぶってくれた近所のおばさんにいわれ、一緒に逃げた。

途中、救援のトラックに乗せてもらい、広島まで運んでもらった。しばらくすると、「黒い雨」が降ってきた。
おばさんが私を避難させてくれた場所には応急の屋根があったので、私は「黒い雨」に濡れずにすんだが、おばさんは「黒い雨」にあたっていた。
おばさんは、2ヶ月後になくなった。
母は、家の下敷きになっていたところを近所の人に助けられた。横川橋まで逃げ、力尽きて川べりに横たわっているところを姉が探しあてた。母は足首にヤケドを負っていただけだったが、だんだん衰弱し、8月15日に亡くなった。

原爆・核兵器は・・・人を人とも思わない、人の心の成せる業。

平和とは・・・人種・国の違いにかかわらず、人間を大切にすること。
人をいじめない、人を差別しない、人を恨んだり羨んだりしない、等、ひとりひとりの力は小一つ一つ、問題解決していくこと。それが大きな平和の実現につながっていく。

私が、60歳をすぎた頃からボランティアで被爆体験をお話しするようになったのは、若い人に語り継ぎ、継承していってもらうため。私も今年70歳になるが、被爆者の平均年齢も72歳になった。もうすぐ被爆者がいなくなってしまう。しかし、人間が起こした大きな過ちを二度と繰り返してはならない。被爆者がなくなっても、若い人たちには忘れずに覚えていてほしい。

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