逗子に残る戦争の記憶

ページ番号1013852  更新日 2026年5月20日

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逗子市内には、戦争の痕跡が今も残る場所や、かつてその歴史を刻んだ場所があります。写真とともに市内の「戦争の記憶」を辿り、戦時中の実状を知ることで、これからの「平和」について考えてみましょう。

池子の森自然公園 弾薬庫

弾薬庫
(写真:逗子フォト/撮影日不明)

池子の森自然公園の一角には、戦時中、海軍が航空爆弾を保管するためつくられた「弾薬庫」が残っています。池子地区が弾薬庫として利用された理由は、細長い谷が山奥へ入り込む地形で、谷沿いにトンネル型の倉庫を造りやすかったためといわれています。

弾薬庫2
(写真:逗子フォト/撮影日不明)

 

 

日中戦争が始まった1937(昭和12)年、海軍は池子地区の買収に着手。1941(昭和16)年には隣接する久木地区へと拡大しました。最終的に横穴式トンネル倉庫16か所、地上倉庫69か所、計85か所の弾薬倉庫が建設されました。


弾薬庫
(写真:逗子フォト/撮影日不明)

 

戦後1947(昭和22)年11月には、米軍が管理する池子弾薬庫内で爆発が発生。周辺住民約1,000人に避難命令が出されました。しかし軍は引き続き弾薬庫を使用。完全に使用停止されたのは、1978(昭和53)年になってのことでした。

池子の森自然公園 線路跡

線路跡
(写真:逗子フォト/2018年)

池子の森自然公園内、トンネルを抜けると右側の広場に、今も戦争の痕跡が残っています。 戦時中、池子弾薬庫として使われていた名残で、弾薬を横須賀基地に運ぶため、弾薬庫敷地内に引き込まれた線路です。この線路は、現在の京急線を通って金沢八景の工場、逗子市消防署北分署付近にある線路を通って横須賀線へとつながっていたと言われています。

神武寺トンネル

神武寺トンネル
(写真:2025年)

空襲に備えて、軍事施設を安全な場所に移す「工場疎開」が行われ、横須賀にあった工場や倉庫も逗子市内各地へ移転しました。工場疎開に伴い、動員学徒や朝鮮人労働者によって、機械を収めるための防空ごうが造られました。神武寺の表参道近くにある防空ごうは、戦後、神武寺トンネルへと整備されました。

披露山公園 高角砲台跡

披露山砲台跡
(写真:逗子フォト/昭和20年代)

1958年(昭和33年)に開園した披露山公園には、戦時中、戦闘機などを狙う高角砲台が設置されていました。現在の披露山公園の猿舎、円形花壇は当時の砲座を利用して作ったもので、レストハウスは当時指揮所があった場所です。猿舎では、今も砲座跡を見ることができます。

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