逗子の分離独立運動について
逗子の分離独立運動
横須賀市への強制合併
昭和16 (1941)年、横須賀市は軍事都市の様相を強くしていました。横須賀市に接する三浦郡逗子町にも本土決戦に備えて披露山に防空砲台、小坪に沿岸防備の洞窟砲台、町内各所に海軍工廠の宿舎が建設されるなど、海軍の影響が強く出始めていました。現在の池子地区にあった2780万坪の大火薬庫は、逗子町だけでなく横浜市金沢区、横須賀市の3市町にまたがっており、戦争が拡大する中、三浦半島全域の合併を望む海軍の意向は大きくなっていきました。
一方、逗子町は別荘地、住宅地、海水浴場と、本来観光の性格が強く、軍港都市とは大きく異なる土地柄のため、合併に反対する空気が濃厚でした。しかし逗子町議会の承認も得られないまま、昭和18 (1943)年4月1日、逗子町、浦賀町、長井町、大楠町、北下浦村、武山村の6町村は軍の意向に沿う形で横須賀市に強制合併されました。
終戦~逗葉医師会の独立
昭和20 (1945)年8月、終戦を迎えた人々の日常生活はまだ取り戻せていませんでした。逗子の人々には、横須賀市からの配給品の量や質の低下、公共施設や学校の予算の不平等感、日常の行政手続きの不便など、多くの不満が累積されていました。そのような状況下、戦時中海軍の圧力で一方的に横須賀市に併合されたことの是非を問いただそうとする思いが広がっていきました。昭和22(1947)年、久木町内会長の竹川秀満氏が中心となり、「逗子は横須賀より分離すべきである」との署名運動が行われました。しかし多くの町民にとっては、食料や衣料品も不足し、日々の暮らしで精一杯のなか、政治問題への関心はまだ低く、署名運動は失敗に終わりました。
一方、横須賀市との合併により横須賀医師会に統合されていた逗子と葉山の医師達は、医薬品の不公平な配給などに不満を感じており、横須賀市から分離する準備を進め、昭和23 (1948)年1月に逗葉医師会の設立許可を得ました。この医師会の動きは当時の若手の政治家、教育界、商工会の人々を刺激し、独立運動の主要メンバーに医師会の会員が加わることにより、さらに運動が活発になりました。
地方自治法の特例発令
昭和23(1948)年7月に地方自治法が改正され、戦時中(注)に強制的に合併された市町村は住民の意思によって元の姿に戻ることが可能になりました。その条件は2年の期限(昭和25年7月末まで)と以下の3項目でした。
分離独立のための3つの条件 |
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(注)戦時中とは昭和12(1937)年7月7日 日中戦争の発端となる盧溝橋事件から 昭和20(1945)年9月2日ポツダム宣言降伏文書に調印するまでを指します。
逗子独立期成同盟会の結成
翌昭和24 (1949)年10月、逗子文化青年団の山口茂氏の発意により「逗子の分離独立は是か非か」という議題で討論会が開かれました。40名程の参加者の中、逗子選出の横須賀市議会議員や逗子在住の参議院議員らは分離独立は時期尚早だと結論づけました。
しかし、閉会後に残った独立に賛成する20名程で「逗子独立期成同盟会」(以下「同盟会」という)を発足、ここから本格的な分離独立運動が始まります。同盟会の委員長には原山伸雄氏(逗葉医師会)、副委員長は山口茂氏(逗子文化青年団)、横沢清造氏(洋菓子店)、中辻荒吉氏(衣料品店)が就任しました。
同盟会は発足後わずか10日ほどで活動を始め、昭和25(1950)年は正月返上で独立のための第一の条件となる署名運動に尽力します。そして1月半ば、有権者の1/3以上の賛成署名を集めて、横須賀市の選挙管理委員会に提出し、分離独立運動の条件を一つ達成しました。
(1)《署名の結果》 有権者 18,377人 署名数 12,845人 うち有効署名数 9,339 (『逗子市史 通史編』より) |
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逗子で独立の機運が高まる一方、横須賀市議会では逗子町分離を阻止する議決がなされたり、横須賀市民の間でも逗子に独立されては損失であると反対の声があがり、独立賛成派と反対派の対立が激しくなっていきました。住民投票の前日にはスピーカーを使っての激しい応酬合戦も起きました。
2つ目の条件となる住民投票は3月19日に行われました。その結果、賛成票が多数を占め、住民の分離独立への支持が示されました。
(2)《住民投票の結果》 (投票率48.7%) 投票総数 8,824票 賛成 6,990票、 反対 1,722票、無効 112票 |
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住民投票に勝利した同盟会のメンバーは新たに「逗子愛町連合会」を結成し、最後の条件である神奈川県議会の議決に向けて県議会議員66名の自宅を訪問し、理解を得ようと活動します。5月1日に行われた県議会本会議後の採決において、逗子の独立が承認されました。地方自治法特例の期限まで残り3ヵ月での決定でした。
(3)《神奈川県議会の決議》 総数 54票中 独立賛成 29票、 反対 24票、白票 1票 |
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逗子町誕生
同盟会の結成から約半年余り、独立を推進してきた人々の喜びは大きいものだったでしょう。昭和25(1950)年7月1日、神奈川県知事から内閣総理大臣に報告され、横須賀市逗子町から三浦郡逗子町への分離独立が実現しました。新しい町長に荒井友三郎氏、町会議員に中村キヌ氏、中辻荒吉氏ら30名が当選しました。
分離独立から4年後の昭和29(1954)年4月15日の市制施行で三浦郡逗子町は逗子市となりました。この日は祝賀の式典が行なわれ、旗行列が逗子銀座商店街を練り歩くなど市制を祝福する一日となりました。
【主な参考資料】 『わたしたちのまち‐独立運動の想い出‐』 中辻荒吉編 Z 31.Zナ |
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「逗子市立図書館報第23号「郷土マーメイド」(2020年6月17日発行)」より転載。

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