学校変遷

ページ番号1003742  更新日 2023年2月28日

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日本における近代的な学校制度は、明治5年8月の学制発布により発足しましたが、これに先だち神奈川県では、明治4年に郷(ごう)学校の設立を呼びかけ、現在の逗子市域においては、同年9月に小坪村香蔵寺に、堀内村(現葉山町)相福寺の堀内郷学校の小坪支校として、はじめて公共的性格をもつ教育機関が設立されました。また、明治5年7月に逗子村には、寺子屋を営んでいた民家に逗子学校(現逗子小学校の前身)が設置され、まもなく同村延命寺に移転しました。

神奈川県の学制は、国の学制を受けて明治6年2月に施行され、小学校の設置を促進しました。第一大学区第十中学区に属した逗子市域では、百一番小学逗子学舎(現逗子小学校)が逗子村延命寺に、明治7年4月、百四番小学鷺浦学舎(現小坪小学校)が、小坪村香蔵寺を仮校舎として設立し、翌8年3月には小坪小学校と改称され、それぞれ逗子学校、小坪学校と呼ばれました。このように逗子市域では、明治7年には逗子・小坪両校の設置が完了し、以後この2校体制で初等教育が行われていきました。

逗子学校は、明治12年6月に現所在地に隣接する逗子村字出口に洋風平屋建校舎を新築し移転し、同19年4月には尋常逗子小学校と改称されました。小坪学校は、児童数の増加により、明治20年に香蔵寺に隣接する報身院を分教場とし、同31年には小坪村大屋敷(現所在地)に校舎を新築し移転しました。

明治22年、町村制施行により、現逗子市域である逗子村外6ケ村が合併し田越村となり、2校ともそれぞれ村立の尋常小学校となりました。

明治31年、尋常逗子小学校に高等科が設置され、尋常高等逗子小学校と改称されました。さらに明治37年5月に男子部補習学校が、同44年5月には女子補習科が附設されましたが、大正5年には男子部補習学校は廃校となり、女子実習補習学校と改称されました。明治45年には前年暴風雨によって倒壊した校舎を全面新築し、さらに同年5月には附設幼稚園を設置し、幼児教育の歩みをもはじめました。

尋常小坪小学校学区では、漁業を生業とする家庭が多く、明治41年4月に実業補習学校を附設し、また、就労のため昼間就学できない児童に義務教育課程が修学できるよう、明治44年には特殊夜学校が附設されましたが、その後児童数の減少により、大正10年11月に廃校となりました。

大正2年に、町制が施行され逗子町となり、同11年、逗子小学校内に町立では県内で2番目となる逗子実科高等女学校(現県立逗子高校)が併設され、幼、小、女子中等教育がなされるに至りました。一方、小坪小学校は、大正15年6月に震災被害や財政難のため廃校となり、逗子小学校の分教場となりました。小坪分教場のほか、昭和4年に沼間分教場が、同13年に久木分教場が開校し、逗子小学校は3つの分教場をもつ大規模校となりました。

昭和16年3月に小坪分教場は、再び小坪尋常小学校として独立し、同年4月の国民学校令により、逗子小は逗子町第一国民学校に、小坪小は逗子町第二国民学校にそれぞれ改称されました。さらに、昭和18年4月、逗子町は横須賀市との合併に伴い、それぞれ横須賀市立逗子国民学校、横須賀市立小坪国民学校と改称、町立逗子実科高等女学校も横須賀市立逗子高等女学校と改称されました。

終戦後、昭和21年、逗子高等女学校は、横須賀市立第三高等女学校と改称、さらに同23年には第三高等学校と改称されました。昭和22年に沼間分教場が独立し沼間小学校に、同24年に久木分教場が独立し久木小学校となり、併設の第三高等学校、附設の幼稚園もそれぞれ分離しました。昭和22年5月、逗子小学校内に、あらたに横須賀市立逗子中学校が開校しました。さらに翌23年9月、横須賀市立逗子第二中学校が分離開校し、翌24年4月に久木中学校と改称されました。

昭和25年7月、逗子町は、横須賀市から分離独立し、第三高等学校は、町立逗子高等学校と改称されました。

昭和29年5月には市制施行し逗子市となりました。翌30年11月、市立逗子高等学校が、県立へと移管されました。その後、昭和49年4月に池子小学校が、市内5校目の小学校として開校し、また、平成元年4月には沼間中学校が、市内3校目の中学校として開校し、現在に至っています。

特殊教育の教室開設は、昭和31年に逗子小学校において始まり、現在各小・中学校に必要に応じて設置されている状況です。

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