池子の歴史について
先土器・縄文時代
(約1万5千年前~紀元前3世紀頃)
およそ2万年前、最後の氷期をピークに地球全体が次第に暖かくなり始め、6千年ほど前の縄文時代前期には、現在よりも平均2度ほど温暖な気候であったと考えられています。 そのため、大陸を覆っていた氷河が溶けて海に入り、1,000年間で10メートル以上も海面が上昇しました(これを縄文海進といいます)。
縄文末から弥生半ば頃(3~2千年前)になると、日本列島はふたたび寒冷な気候となります。 縄文時代中・後期には海面が急速に後退(縄文海退)して陸地化したところに人が暮らし始めました。逗子地域の低地部は内陸まで湿地状態のところがまだ多かったようです。
気候の変化にともなって、森の植生も変化しました。それまでの豊かな恵みをもたらしたクリ、ケヤキ、クヌギ、コナラなどの落葉広葉樹林が減少して、アカガシ、モミなどの常緑樹からなる 照葉樹林が優勢となってゆきました(地層中の植物化石分析などにより、確認されています)。 このような自然環境の変化によって食物が減ったことで、稲作の導入が促進されたとも言われています。
池子遺跡群から先土器・縄文時代の遺物の出土はきわめて少なく、この時期に相当する遺構は検出されませんでした。それは、約6千年くらい前まで池子の丘陵下の低地は海面下であったからです。低地を調査すると基盤の土層は自然の貝を多く含む海成層となっています。
縄文時代の遺物は、低地の自然流路から前期や中期に属する土器破片が少量摩滅した状態で出土したほか、丘陵寄りのやや高いところから、中期の土器破片が出土しています。


中期ごろのものと思われる石棒と呼んでいる祭りに用いられた石器で、No.1-A地点の埋没谷から出土しました。
縄文時代晩期から弥生時代の始めころになると、No.1-A地点やNo.1-A南地点の旧河道の河底から土器破片が出土しています。

浮線網状文と呼んでいる文様をもつ晩期終末期の土器です。
独鈷石と呼んでいる用途不明の石器で、縄文時代晩期のものと思われます。
弥生時代
(紀元前3世紀~紀元3世紀半ば頃)
この池子地域には、いつ頃からひとが住んでいたのでしょう。
今から約二千百年前、弥生時代の半ば頃から、本格的にひとの暮らした様子がみられます。それ以前、先土器・縄文時代の遺物も発見されましたが、遺物量が少ないうえ、遺構が検出されな かったことなどから、丘陵の上など、他の場所から流入したものと思われます。
弥生時代は、日本列島のひとびとの歴史の中で、初めて農耕が生活の中心になった時代 でした。もちろん縄文時代のひとびとも植物の栽培は行っていましたが、それは生活のごく一部を支えていたにすぎません。 弥生時代の遺跡は、縄文時代とは異なり、川沿いの低地や谷戸の入口に近い台地に多くみられます。 これは稲作と大きな関連があったためと思われます。
池子地域には、谷戸に沿って大きな河(幅8~5m、最深3m)が流れていました。その河底からは多量の遺物が、周辺のテラス部分には竪穴住居や掘立柱建物のあと、お墓などが見つかり、河を中心としたひとびとの暮らしぶりがうかがえます。
そして、弥生時代が中期から後期に移り変わる頃、洪水と思われる砂礫で、この河は一気に埋没してしまいます。弥生後期、紀元100~260年頃の遺物・遺構はほとんど発見されておらず、3世紀後半、古墳時代に新たな開発がこの地に及ぶまで、ひとびとの暮らした様子は見られませんでした。
弥生土器
「縄文土器は肉厚で装飾的、弥生土器は薄くて簡素」というのが旧来の一般的な認識ではないかと思われますが、近年の研究により、地域性、多様性が明らかになるにつれ、縄文土器と弥生土器の区別は難しくなってきました。
縄文土器と弥生土器の違いはなんでしょうか?
両者の間に大きな技術革新はありませんでした。 粘土の紐を巻き上げ、或いは輪積みして基本形を作り、縄や貝殻、竹管などで文様や赤彩を施します。 ロクロも窯も使わず、それを野焼きにします。こうして焼くと、温度は600~800度ほどの低温で、酸素が十分にあるので(酸化焼成)、明るい褐色になります。縄文土器と弥生土器の間には、成形や加飾法、施文具にいたるまで製作技術に根本的な変化はなかったのです。
それにもかかわらず、両者を違うものと認識するのはなぜでしょう。農耕社会の形成や、朝鮮半島から移り住んできた人たちとの交流にともない、かれらの食生活や価値観も変わっていきました。呪術的、装飾的な要素の強い縄文土器に対し、実用性、秩序が重視されるようになったことが、その様式を変化させたのかもしれません。

土器は食生活との関連が強い什器のひとつです。煮炊き用の土器が多かった縄文時代とは異なり、ものを蓄えるための壺の比率が非常に高くなりました。稲作が生活の中心になることで、食料や種籾などを蓄える容器が必要になったのでしょう。そして、貯蔵用の壺、盛りつけや供献用の高杯・鉢、煮炊き用の甕、という弥生時代の食に関する基本的な組合せができあがりました。
弥生時代は、おもに土器の様式によって、前期、中期、後期に分けられますが、前期の様子はほとんどわかっていません。池子遺跡群では、南関東地方の弥生時代中期後半に位置付けられる「宮ノ台期」にクライマックスをむかえます。土器は時期による変化と同時に、地域によっても異なるため、交流の有力な手がかりともなります。
写真は当遺跡の中心的な「宮ノ台式」土器です。上段が壷、中段左は広口壷、中段右が甕、下段左は小型鉢、下段右が高坏です。
木製品
弥生時代といえば、稲作を思い浮かべる方も多いでしょう。弥生時代の農法がどのようなものであったのかは、まだわからないことも多いのですが、かれらが多くの労働を水稲耕作にそそぎ、それを中心とした生活サイクルをおくっていたであろうことは容易に想像できます。
池子遺跡群ではっきりとした水田址は見つかっていませんが、地層中の花粉化石分析などにより、イネ科花粉の増加が認められます。 また、数多くの農耕具の発見からも、弥生時代中期にこの地で稲作がおこなわれていたことはほぼ間違いないと考えられます。
しかし、稲作を生活の中心として日々たいへんな努力をしたとして、かれらはどのくらい米を食べていたのでしょうか?
歴史時代の文献資料、民俗資料、実験的方法などからすると、かなり不足していたと考えられます。まだまだそれは主食とはいえず、縄文時代同様、堅果類やイモ類、畑作物によって澱粉質を補っていたのでしょう。
それどころか、つい近年まで、一般農民が満足に米を食べられることなど、あまりなかったにも かかわらず、日本人はコメに執着し、それに夢を託してきたのです。

No.1-A地点を中心とする弥生時代の旧河道から、大量の木製品が発見されました。 弥生時代中期後半の木製品は神奈川県内でも最初の発見例で、質・量ともに関東全体でも代表的なもののひとつに数えられています。
二千年前の木製品が、なぜ腐らなかったのでしょう。木や布などの有機物は、通常とても腐りやすいものですが、極端な乾燥あるいは湿潤などの条件のもとでは保存される場合があります。池子の場合、低湿地であったことが幸いし、粘土層や水によって真空状態が保たれたため、たいへん良い状態で残っていました。
農耕具である鍬や鋤も多く出土しています。鍬は刃と柄が直角、鋤はスコップ状に刃と柄が 真っ直ぐになっているものをいいます。鍬は刃と柄が組合せ式になっており、鋤は一木で仕上げたものと組合せ式のものがあります。刃先が分かれたもの、幅広のものなど、種類も豊富です。
写真の下3点は機織りの道具です。弥生人はどのような衣装を身につけていたのでしょう。 古代人の衣服については、資料も非常に少なく、知るのがたいへんむずかしいテーマです。 機織具が出土していることから、池子のひとびとは麻や木綿の布製の簡単な衣服を身につけていたと考えられます。
骨角牙製品

弥生時代には水田稲作が生活の中心になったとはいえ、それだけで充分な食糧が得られたわけではありません。縄文時代と同様に、狩りや漁、木の実の採集などもおこなわれていました。
写真上はヤス、モリ、離頭モリ、釣針などの漁労具です。ヤスの突き刺さったイルカの頭骨も見つかっており、海獣や海の魚、貝、川魚など、多種類のものを捕獲していたことがわかります。

写真は左2点がY字型柄頭状製品、右上は垂飾り、かんざしなどの装身具です。下は左から鹿角製紡錘車、鮫の歯の垂飾り、鯨の歯の垂飾りです。
卜骨・石製品

卜骨(ぼっこつ)
鹿や猪の肩胛骨を焼いて吉凶を占う卜骨(ぼっこつ)が数多く出土しています。 農作物の豊凶や病気、晴雨など多方面にわたって占うものです。この風習は太占(ふとまに)と して、現代でも神社行事に残っています。

石製品
写真はどれも、きれいに磨き上げられた磨製石斧といわれるものです。材木を伐採し、荒割りするための大型のものから、削る、抉るといった小さな細工に適したものまで、用途に応じて大きさも形状もさまざまです。
古墳時代
(3世紀後半~7世紀頃)
池子遺跡群でも、古墳時代前期には調査区全体に人々の生活の跡が見られるようになります。弥生時代の遺構・遺物がほとんどみられなかった地点からも、多くの竪穴住居址・溝・土器溜り、多数の土師器や木製品などが出土しました。
古墳時代中期には遺構・遺物とも前期に比べて減少し、遺跡群の規模が一旦縮小されます。神奈川県内では古墳時代中期の遺跡数が減少し遺跡の規模も小規模になる傾向が今までの発掘調査で明かにされていますが、池子遺跡群でも同じ様な傾向が確認されました。
古墳時代後期になると、遺跡群全体で遺構の数・遺物の出土量が増加します。多くの掘立柱建物址が発見され、溝などの遺構から木製品や土器が出土しました。

盛土や主体部は、後世の削平などにより確認できませんでしたが、特定の人物やその近親者が葬られていると考えられます。まわりの溝からはたくさんの土器が出土しました。



鏡は重さ7.6g、3cmほどの破片ですが、他の類例から推定して、右下図のような直径10cmほどの内行花文鏡と呼ばれるものと考えられます。竪穴住居址から鏡が見つかることは稀で、神奈川県で2例目です。

どのような経路を辿って、この鏡が池子の地まで運ばれてきたのか、たいへん興味深いところですが、この難問はいまだ解かれていません。
奈良・平安時代
(8~12世紀頃)
当時、相模国には8つの郡が設置されましたが、ここ逗子市は 鎌倉郡に属していました。鎌倉郡の郡衙(郡役所)は現在の鎌倉市御成町(今小路西遺跡)にありました。天平勝宝元年(749年)に郡衙を通じて朝廷に税として納められた布が今も東大寺の正倉院に残されています。そこには、この布が相模国鎌倉郡沼浜郷から納められたものであることが 記されていました。
また、平安時代の『倭名類聚抄』には鎌倉郡に「沼浜郷」の存在が記されています。沼浜郷は現在の逗子市のほぼ全域に当たると推定され、沼浜の名は現在の沼間(池子の南東隣)にその名をとどめています。
沼間3丁目遺跡群(菅ヶ谷台地遺跡 逗子市No.72 ・沼間ポンプ場南台地遺跡 逗子市No.37)では、3.5~4m四方の奈良・平安時代の竪穴住居址が20数軒確認されています。市内で発見されている当時の集落としては規模が大きいことや、周囲に古代集落が点在することなどから、これまで、現在の沼間付近が郷の中心と考えられていました。 しかし、この地域が標高の高い丘陵上であること、また、2001年7月~2002年3月の調査で延命寺遺跡(逗子4丁目、逗子市No.110)から古代の建物址や井戸址が検出されたことなどにより、逗子市域の古代史観に新しい可能性が生まれてきました。

住居址は約3m四方の正方形のものが多く、小さな谷戸やその出口付近から14軒ほど確認できましたが、大規模な集落ではなかったようです。




和同開珎・隆平永宝

巡方・丸鞆
それらは官人に関係するものであることから、この時代の池子には、官人あるいはかなり有力な農民層が住んでいたと考えられます。
中世
(12世紀後半~16世紀後半頃)

法性寺祖師堂裏より逗子湾を望む
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた天然の要塞で、以後は武家政権の本拠地として発展し、13世紀中頃から多くの人や物資が流れ込んで都市としての隆盛を極め、1333年の鎌倉幕府滅亡後も関東経営の中枢として15世紀中頃まで栄えました。

名越切通

大切岸
また、現存する日本最古の築港址「和賀江島」は西国との交易の窓口として、多くの陶磁器をはじめとする物資がもたらされました。また、遠く朝鮮・中国(宋・元)へも通ずる鎌倉の玄関口でもあったのです。

No.1-E地点 中世遺構面
これらはいずれも規模が大きくない居住施設と思われますが、比較的暮らしやすい山裾の小高い部分を生活の場としていたことがわかります。
鎌倉時代の後半、13世紀半ば~14世紀前半にかけては、明確な居住関連の遺構は発見されていません。

中国製磁器
「やぐら」について
(13世紀後半~16世紀頃)

No.15地点 第3号やぐら
「やぐら」の数は鎌倉市内に2千とも3千とも言われますが、分布を含めて正確にははわかっていません。しかし、その多くは寺院(廃寺を含む)の分布と符合するようです。また、鎌倉地方に特有な遺構だと言われてきましたが、近年では房総半島はもとより、東北、北陸、 九州など、各地の鎌倉と関連の深い地域を中心に分布していることが知られるようになってきています。

No.15地点 第6号やぐら

No.1-E地点とNo.12地点

五輪塔とかわらけ

No.7地点 第146号土坑
また、No.15地点の「やぐら」の前面はNo.7地点ですが、ここでは戦国時代から近世以降の土壙墓群が発見されした。「やぐら」群と土壙墓群の関係を解明するのはこれまた困難ですが、中世から近世にかけての葬送供養の具体的な様相を知るうえで欠くことのできない貴重な成果と言えましょう。
近世
(16世紀末~19世紀後半頃)
このころから、戦乱に翻弄されてきたひとびとの生活は、しだいに落ち着きを取り戻してゆきました。封建領主は検地を行い、村を単位として領地と農民を支配し、納められた年貢を基盤として、近世封建制社会を築いてゆきます。
秀吉の死後、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を開いて全国を支配するようになりました。長い戦いの時代は終わり、この後約260年の間、幕藩体制とよばれる政治的に安定した時代が続くことになります。
近世は、封建領主の農民支配をはじめとして、支配階級のあいだで、多くの文書が 作成された時代でもありました。地所を把握するための絵図、年貢の徴収に関する台帳、通知書から官僚間の伝達、報告、資料など、文書の量がそれ以前にくらべて飛躍的に増えました。
池子村も、後北条氏の滅亡によって、泰平寺の寺領から徳川の直轄領になります。その後、3代将軍家光の頃に鎌倉の尼寺、英勝寺の領地となり、明治4年(1871年)まで続いたと考えられます。英勝寺は水戸家ゆかりの格の高いお寺です。
そこからは陶磁器をはじめとして、木製品や漆製品などの遺物がたいへん豊富に発見されました。


磁器は肥前系、陶器は瀬戸・美濃系の製品が多く、日常使いの器が中心ですが、天目・織部・志野織部・黄瀬戸など、茶器の類も少量出土しています。
中世末に登場した家々は、その後、近世から近代にかけて多少の変化を見せながらも代々営まれ、昭和の接収まで続いたものと見られます。
近・現代
(19世紀後半以降)
1994年に緑を守る約束で合意し、現在に至っています。60年もの間、一般の立ち入りが厳しく制限されていたため、発掘調査では明治から海軍接収までに渡る近代の遺構・遺物が 多く発見されました。弾薬庫造成にともなう大量の排出土に埋もれて、接収直前までの人々の生活のあとがほとんど破壊されることなく良好な状態で保存されていたのです。

建物址の基礎に切石を礎石としているもののほか、建物の形にあわせて方形に溝を掘り、そこに土丹を敷き詰めているものもあります。明治から昭和初年頃まで、この地域によく見られた建物の基礎構造で、土丹地業と呼ばれています。







