広報ずし 2025年8月号 NO.1002 6-7面 戦争体験を聞くA 被爆体験と平和への願い 1945(昭和20)年8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下されました。犠牲者は同年末までに広島で約14万人、長崎で約7万人とされ、その後も多くの人が被爆による後遺症で亡くなりました。 広島での被爆体験を子どもたちへ語る活動を行う宮川さんに、当時の体験や思いなどを聞きました。 逗子市被爆者の会(つばきの会) 宮川 千恵子さん(池子)91歳 8月6日午前8時15分 世界で初めての原子爆弾投下  小学校5年生だった私は、爆心地から9q離れた村に母と2人で疎開中でした。前日に疎開先へ来ていた父と兄は、6日早朝に広島市へ出発。私は山に木を切りに行く作業日でしたが、膝のけがのため、教室で友達と2人で読書中でした。8時15分、強い光を感じ「何?」と言っているうちにドーンという爆音が響き、窓ガラスが割れて机の上に散乱。静かになってから校庭の防空ごうに逃げ込みました。しばらくして無事だった母が迎えに来て帰宅すると、家の中は爆風でめちゃくちゃな状態でした。  原爆投下時、父は爆心地から2.4qの己斐(現西広島)駅で乗り換えのため並んでいました。空に3つの落下傘を見付け見上げていて、それが原子爆弾と計器だったため上半身にやけどを負いました。もし、前の電車に乗っていたら爆心地近くで丸焦げでした。兄は爆心地から1.8qの学徒動員先に向かう途中の道で熱風に飛ばされ、伏せた体の上に建物が崩れて落ちてきました。ちょうど土塀の陰を歩いていたので、4000度ともいわれる熱線は免れ、やけどはしませんでした。父も兄も奇跡的に助かり、重症の人を助け励まし合いながら、その日のうちに母と私がいる疎開先に戻ってくることができました。  翌日から村の学校の教室やお寺、農家の座敷などは、市内から逃げてきた、やけどやけがをした人たちであふれていました。父のやけどもひどく、必死で看病しました。終戦を経て一時的に回復したものの、原爆症で手の施しようもなく、3年後、家族に見守られて亡くなりました。最期、かすかな声で私たちに「泣くな、泣くな」と言ったのが聞き取れました。「強く生きてくれ」ということだったと思います。 たった一発の爆弾が奪った多くの命 原爆の恐ろしさと悲惨で甚大な被害  広島に投下された原爆は、約600メートル上空で5000〜6000度ともいわれる高熱の光を放ってさく裂。その瞬間、60q先まで届いたといわれる強烈な爆風と、大量の放射線が放出され、きのこ雲となって空高く突き上がりました。きのこ雲の下で奇跡的に助かった人もひどいけがを負い、火に追われ、水を求めて逃げた先の川は死体でいっぱいになりました。原爆投下時、建物疎開の作業を担っていた中学校1・2年生男子や女学生、主婦の多くが焼き殺され、その子どもや親を探しに行った人も高い放射能のため亡くなりました。大量の遺体は軍隊が方々に穴を掘って埋めたり、救援隊が火葬したりしました。  また、自分の命が助かったために、今もなお犠牲者やその遺族に申し訳ない気持ちを抱く人も少なくありません。私の夫の家族や兄の妻も、そのような被爆者です。  原爆は広範囲に、しかも一瞬にして、熱線と爆風、放射能で多くの命を奪いました。核兵器の残酷さは、写真や言葉だけでは説明できません。逗子市被爆者の会が発行した『被爆証言集』は、被爆者が当時の体験を懸命につづった貴重な証言集です。多くの人に読んでいただき、原爆の恐ろしさを知ってもらいたいです。 後世の人に託したい 核兵器廃絶と平和への道のり  1988(昭和63)年に逗子市被爆者の会(つばきの会)が結成され、被爆者同士、自分の体験を話し、悲しみを理解し合える場として集まりました。また、原爆を知ってもらうため、証言集の作成や講演会・展示会の開催、ピースメッセンジャーを広島・長崎へ案内。14年前から始まったずし平和デーでは、「原爆と人間展」を毎年開催しています。被爆者は年々亡くなり、私は2014(平成26)年から市内小・中学校での証言活動を引き継ぎました。  昨年末、日本原水爆被害者団体協議会にノーベル平和賞が授与されましたが、既に亡くなった方たちの平和活動の尽力があったからこそ。私たち被爆者の願いは核兵器廃絶、そして世界平和です。現在も争いが絶えませんが、絶対に戦争はしないでください。人間の命の大切さを考え、行動につなげることを心から願っています。 【キャプション】 原爆投下から数日後、当時の様子を語る父の口述を、母が筆記したもの。「私が85歳になって見付けた、貴重な資料です」 『被爆証言集』の表紙。市ホームページから閲覧できる【ホームページ番号】1002440 (上)市内小・中学校で、宮川さんの話を真剣に聞き入る子どもたち(下)「原爆と人間展」では、被爆者が当時の様子を描いた絵を展示。宮川さんの話を聞いた子どもたちの、核兵器・戦争反対の思いをつづった感想文も展示される 平和を学び伝える メッセンジャー 1991年から2017年まで、ピースメッセンジャー派遣事業が行われました。次代を担う若い世代が「核兵器の恐ろしさ」「戦争の悲惨さ」「平和の尊さ」について考え、学び伝える目的で実施。26年間で計502人の中学校2年生を沖縄・広島・長崎へ派遣しました。 【キャプション】 広島では広島平和記念資料館などを訪れ、千羽鶴を原爆の子の像に献納した 平和をつなぐワークショップ ピースメッセンジャーの経験者と共に、「平和をつなぐ」ことを考えるワークショップを開催します。詳細は市ホームページで確認してください。 【日時】8月11日(月祝)10:00〜12:00 【場所】文化プラザホール 【対象】小学校5〜6年生、中学校1〜2年生 【申込】【問い合わせ先】8月4日までに市民協働課へ 【ホームページ番号】1012835 interview 今も忘れない被爆証言 平和を共に考えたい ピースメッセンジャー (2007年派遣) 三浦 正明さん(沼間)  長崎に派遣され、被爆遺構が残る小学校などを巡りました。今の暮らしでは考えられないような出来事が現実にあったのだと、遺構を見て衝撃を受けたのを覚えています。被爆者の方からもお話を聞きました。同年代の子どもたちが犠牲になった話を聞いて、原爆や戦争の残酷さと平和の大切さを強く実感しました。  日々の生活の中で、平和について意識することは少ないかもしれません。けれど家や学校、職場の平和は誰もが望むものです。今回行うワークショップが、戦争や平和を自分事として考え、実際に動くきっかけになれば。小さな行動の積み重ねが、世界の平和にもつながると信じています。