広報ずし 2025年8月号 NO.1002 5面 戦争体験を聞く@ 学徒出陣と戦後の復興 1943(昭和18)年に学徒出陣令が公布され、満20歳に達した学生は徴兵対象となりました。逗子在住で、当時21歳の大学生だった三田村さんも招集され、特攻機の整備を担当。何人もの特攻隊員の出撃を見送りました。戦後は、東逗子駅開業や幼稚園園長としてまちの復興に尽力された三田村さんに、当時の話を聞きました。 前法勝寺住職 前かぐのみ学園理事長 三田村 鳳治さん(沼間)103歳 特攻は“行くも悲し、送るも悲し” 逗子の学生が見送った多くの命  1943年10月21日、神宮外苑で出陣学徒壮行会が開催されました。「生等(せいら)もとより生還を期せず(私達は生きて帰るつもりはない)」という学生代表の言葉が、今でも耳に残っています。陸軍に入隊し、東京・立川の航空技術学校で整備技術を学びました。その後、沖縄防衛のため、操縦者と爆弾を乗せた航空機で敵艦に体当たり攻撃を行う特別攻撃=特攻が本格的に始まります。私は特攻機の整備兵として、1945(昭和20)年3月に宮崎県都城西飛行場へ。しかし、4月末に大規模空襲に見舞われ、生き残った私は鹿児島県知覧飛行場に移動しました。  特攻機の整備では、ガソリンの予備タンクを外して爆弾を取り付けます。特攻隊員は「お世話になりました」と挨拶して出撃。みんな多くは語りませんでしたが、「もう一回、かあちゃんに会いたい」という本音を耳にしたこともあります。飛び立った後「これから突っ込む」という連絡があり、通信が途切れて「ツー」と鳴る。その音が本当に嫌だったし、つらかったです。  多くの戦友が亡くなっていく中、私も命を賭して戦いたいと志願したことがありました。そのとき上官が「死ぬのはいつでもできる。これからの日本をどうするか考えろ」と。あまりに軽くなっていた生の意識を、心ある一言が取り戻してくれました。6月、東京の成増飛行場に移動。そこで、8月15日の終戦を迎えました。 まちのため、子どものため 戦争がない平和な未来のために  終戦後、淡路島で残務処理に当たり、9月末に2週間かけて逗子へ帰郷。3年ぶりに実家に戻りました。  戦後の逗子は池子弾薬庫なども接収され、まち全体に悲しみが漂い、混乱していました。家族や家を失い防空ごうに身を寄せる人もいて、食べる物がなく奪い合いや犯罪、暴力が増えていました。どうにかしたいと寺の敷地を開放。身寄りのない子どもを引き取り、集まってきた見ず知らずの人たちと助け合って暮らしていた時期もあります。また沼間地区には、線路は通っていても駅がありませんでした。「まちの未来のために新駅を」と奔走し、1952(昭和27)年に東逗子駅が開業しました。  戦争がない平和な未来のためには子どもの教育が大事だと、戦後まもなく寺の一角に、たちばな保育園(現かぐのみ幼稚園)を開園。住職の傍ら園長として子どもたちの成長を見守り、命の大切さを伝えてきました。子どもの輝く未来を守るため、戦争は絶対にしてはいけない。命ある限り、そう伝え続けます。 *三田村さんは「ずし平和デー」オープニングセレモニーに登壇予定。詳細は8ページへ。 【キャプション】 操縦席に座る出撃前の特攻隊員に、咲いていた桜の枝を手渡し見送ったことも(左が三田村さん) (上)子どもたちに紙芝居を読む三田村さん。1948(昭和23)年撮影 (下)1952年、開業時の東逗子駅