広報ずし 2025年8月号 NO.1002 4面 戦争の影響は今も  1945年8月に終戦を迎え、逗子にある軍事施設は連合軍に接収されました。戦後も苦しく混乱した生活が続く中、軍事施設の跡地で被害者を出す事故が発生します。  小坪の洞窟砲台があった場所では、1945年10月に爆発事故が発生し、子ども十数人が亡くなりました。1947(昭和22)年11月には、米軍が管理する池子弾薬庫内で爆発が発生。周辺住民約1,000人に避難命令が出されました。しかし軍は引き続き弾薬庫を使用。完全に使用停止されたのは、1978(昭和53)年になってのことでした。  池子の返還運動は、1954(昭和29)年の逗子市制施行を機に活発化。1970年代になって、第一運動公園と久木中小共同運動場が返還されました。池子の森自然公園は、2015(平成27)年に米軍と日本の共同使用という形で開園。2024(令和6)年には逗葉地域医療センターへの進入路が返還されました。  逗子は、大きな空襲被害こそありませんでしたが、池子の歴史や各地に残る痕跡から、戦争でさまざまな影響を受けたことが分かります。 【キャプション】 飯島崎(現逗子マリーナに面する山)の中腹に造られた洞窟砲台の跡地。今は入り口が塞がれ、近付くことができない 今も残る戦争の痕跡 池子弾薬庫内には物資を運ぶための線路が敷かれ、現在の京急線を通って金沢八景の工場、消防北分署付近にある線路を通って横須賀線へとつながった。池子の森自然公園内には、線路の一部が残っている 私の記憶 谷山 重子さん(逗子) 98歳  空襲が激しくなってきた中学生時代、都内から久木にあった別荘に家族で疎開しました。横須賀線で都内の学校に通い、皇居のまわりなど、まちの掃除をしていました。逗子近辺は大きな空襲被害はなかったですが、大船駅以降の車窓から見る風景はどこも焼け野原。親には「横浜までに警報が鳴ったら逗子へ戻り、横浜以降なら東京の親戚の家へ向かいなさい」と言われていました。  終戦の1年前頃から都内への通学も危なくなり、勤労学徒として横須賀の海軍基地へ。亡くなった兵士の家族に戦死を伝えるための通知を郵送する、戦死・傷者係に終戦まで従事しました。つらい仕事でした。逗子駅を使っていましたが、栄養失調のためか、現在もある東口改札から隣のホームに行くための階段を一気に上り下りできません。何回か休憩を挟みながら渡っていました。  戦後はそのまま逗子に住み、両親が営んでいた都内の写真館再建に家族で励みました。夏は逗子海岸で海の家を借り、浜の写真館を5か所営業したこともあります。戦争で写真が焼けてしまった人が多く、喜ばれました。いつでも誰でも、自分のやりたいことや好きなことが自由にできる、平和な世の中であってほしいと願っています。 【キャプション】 疎開した久木の別荘の庭で姉2人と(左が谷山さん)。この庭に防空ごうの代わりとして穴を掘り、いざというときに備えた