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13. 観音堂 久木5-7-11 岩殿寺 
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観音堂
観音堂軒下の組物
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岩殿寺の創建時期は明らかではありませんが、寺伝によると奈良時代、養老四年(720年)僧行基の開創と
されています。
鎌倉時代には、大姫(頼朝娘)、政子、頼朝、頼家、実朝、泰時妻らが参詣したことが『吾妻鏡』に 記されており、源氏の崇敬が厚かったことが伺えます。
その後、室町時代には相当に衰退していたようですが、『新編鎌倉志』『新編相模風土記稿』等によれば、17世紀初めに三浦郡の代官長谷川七衛門長綱により、曹洞宗海宝院の末寺として再建されたことが記されています。曹洞宗改宗前には
真言宗であったようです。
現在の観音堂は様式や棟札により、17世紀初めのものではなく、享保十三年(1728年)の再建と考えられます。 桁行3間、梁行5間の寄棟造りで、小規模ながら平面の基本は中世以来の伝統的な密教本堂形式をとり、
軸部には禅宗様の本格的な意匠である二手先(ふたてさき)と呼ばれる組物を用い、さらに細部には江戸時代的な和様 の意匠がみられます。
もとの屋根は茅葺でしたが、昭和63年に解体修理が行なわれ、茅形銅板葺に改修されました。 鎌倉地方の近世寺院建築様式の変遷を知るうえで重要な建築といえます。
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14. 四脚門 沼間2-12-15 海宝院 
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海宝院
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海宝院参道の正面に切妻造茅葺、朱塗りの門があります。 主柱2本の正面と背面にそれぞれ2本づつの側柱をた てたものを四脚門といいます。
海宝院は、寛政二年(1790年)、本堂や山門など堂舎の大半を焼失する 災禍に見舞われましたが、この門だけは被害をまぬがれたものと思われ、海宝院創建時の建築であると考えられます。
桁行3.14m、梁行2.78m、標準的な禅宗様四脚門の形式をもち、木鼻(きばな:下記参照)の渦文などに室町時代の様式の 特徴がみら れます。
平成16年(2004年)に半解体修理、屋根の葺き替えが行われました。
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久木 妙光寺 (参考)
貫や肘木などの横材が、柱や組物から突き出た部分を木鼻と呼びます。 絵様や繰形などの装飾が 施されており、地域や年代によって変化しました。
海宝院の門は鎌倉地方の室町時代末期の特徴をよく示す 江戸時代初期の建築として重要な価値があります。
久木の妙光寺や池子の東昌寺の四脚門は、これに続く時期のものと考えられます。
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海宝院 四脚門木鼻
妙光寺 四脚門木鼻 (参考)
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15. 木造不動明王立像 沼間2-1402 神武寺
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※ 写真:『湘南の古刹 神武寺の遺宝』(2004年 神奈川県立歴史博物館)より
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慈悲の心でひとびとの苦しみを救う如来や菩薩などの仏像に対して、 明王は武器を持ち恐ろしい怒りの形相をあらわしています。仏の教えに背く悪をこらしめ、 正しい道に導くのが明王です。中でも不動明王は、
「お不動さま」として庶民に親しまれ、勇猛な姿から武家の信仰を集めました。
像高51.8cm、燃え上がる火炎を背に岩座に立ち、頭上には頂蓮をいただき、左肩に弁髪を垂らしています。 右手に三鈷剣、左手には羂索(けんじゃく)と呼ばれる邪悪を捕らえる投げ縄をもっています。
木造寄木造で玉眼が嵌入され、衣文には朱・緑・胡粉などの彩色が施されています。
鎌倉時代後期の作とされていますが、表現に形式化がみられるなど、 後世の模古作の可能性も指摘されています。 現在は鎌倉国宝館に寄託。
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16.木造薬師如来坐像及び日光・月光菩薩立像 沼間2-1402 神武寺 
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如来とは悟りをひらいた仏のことで、虚飾や欲をもたない納衣をまとっただけの姿です。 阿弥陀如来があの世での救いを与えてくれるのに対して、薬師如来はこの世の病の苦しみから
救ってくださる 一般に薬師如来には日光・月光(がっこう)菩薩の脇侍がついて三尊形式をとります。 菩薩は悟りを求めて修行中の仏で、宝冠や首飾り、腕輪などの装飾を身につけています。
当三尊像は神武寺薬師堂の中央の厨子に祀られる本尊です。中尊の薬師如来像は坐像で、寄木造、 像高69.8cm、 目は玉眼を用いず彫眼。右手でひとびとの願いをかなえる施無畏印(掌を開いて前に向ける)をとり、左手に薬壺を
もっています。頭髪はふつうの如来像にみられる螺髪(らほつ)ではなく、同心円状の縄目が刻まれて います。
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両脇侍は宝髻(ほうけい)を結い上げ、天衣(てんね)をまとい、日月輪の蓮華を左右対称にもって 蓮華台に立っています。 どちらも寄木造、像高58.0cm、59.5cm。中尊が彫眼であるのに対し、脇侍は玉眼が嵌入されています。
三尊像はいずれも室町期の仏像彫刻の特徴を示しており、制作は15世紀半ばから16世紀頃 と考えられています。
厚い信仰の根本となる霊像として、古来より三十三年に一度の御開帳以外は秘仏とされています。次回は 2017年ですが、毎年12月13日の午前中におこなわれる煤払いの法会の際、拝観することができます。
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※ 写真:『湘南の古刹 神武寺の遺宝』(2004年 神奈川県立歴史博物館)より
17. 木造阿弥陀如来坐像 池子2-8-33 東昌寺 
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池子の東昌寺は山号を青竜山と称し、真言宗に属します。寺伝では、鎌倉幕府滅亡の際に執権北条高時らが最期を遂げた鎌倉葛西ヶ谷の東勝寺が移されたものとされています。
山門の右手にある阿弥陀堂に県内でも珍しい丈六の阿弥陀如来坐像があります。
高さ103.5cm、径282.5cmの台座に安座する如来は、像高259.5cm(肉髻部を欠損)、 輪光背をいただき、上品下生の来迎印を結んでいます。寄木造、玉眼嵌入、肉身部に朱と金泥の彩色、
面部には金粉の名残がみられます。
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胎内銘などによると、もとは運慶作と伝えられる阿弥陀如来像があったようですが、享保十二年(1727年)に火災で焼失し、宝暦六年(1756年)に現在の堂と像が再興したとされています。仏師は鎌倉扇ヶ谷の三橋宮内忠之とその息子であることが胎内墨書銘に記されています。三橋家は後藤家とならんで、有力な鎌倉仏師のひとつです。
大正十二年の関東大震災で被害を受け、後頭部・頭頂部を欠損し、左掌に穴があいています。
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18. 木造阿弥陀三尊立像 小坪5-10-17 海前寺 
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小坪の海を見下ろす崖の中腹に時宗(じしゅう)海前寺があります。 号は供養山三宝院、藤沢の清浄光寺(遊行寺)の末寺で、鎌倉時代末期に厳阿上人により開山されたと伝えられて
います。
本尊は阿弥陀三尊像です。一般に阿弥陀如来のもとには、向かって左に勢至(せいし)菩薩、右に観音菩薩の脇侍がつきます。 勢至菩薩は智慧の光で一切を照らし、観音菩薩は生衆に救済を施す仏です。
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中尊は上品下生(じょうぼんげしょう:親指と人差し指をつけ、右手は胸、左手を下げる印相)の来迎印を結び、 蓮華座に立っています。
両脇侍は輪光背をいただき、宝髻を高く結い上げ、腰をひいた来迎の姿勢です。 勢至菩薩は合掌し、観音菩薩は蓮台を持っています。
像高は阿弥陀像77.5cm、 勢至51.5cm、観音50.2cm。三像とも寄木造で、玉眼をはめ込み、肉身部は漆箔をほどこしています。その特徴から室町時代後半の造立と考えられていますが、台座と光背はいずれも後世に補われたものです。
平成11年(1999年)に部分修理が行われました。
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19. 木造阿弥陀如来立像 小坪4-26-3 仏乗院 
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小坪湾を望む山際にある仏乗院は、海潮山阿弥陀寺と号し、古義真言宗、延命寺の末寺です。 宝永二年(1705年)の創建と伝えられています。
阿弥陀如来立像は仏乗院の本尊で、像高77.8cm、寄木造、玉眼嵌込、漆箔。蓮台と連弁形光背はいずれも後補です。
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上品下生の来迎印を結び、頭部は螺髪に肉髻、水晶を嵌め込んだ肉髻珠と白毫をもちます。 衣文の表現は写実的で、背面部も省略されることなく立体的に刻み出され、全体に丁寧に仕上げられています。
逗子市内でも傑出した、鎌倉時代後期の佳作といえましょう。
胸部裏面の墨書銘と胎内銘文により、室町時代後期の永正十年(1513年)、江戸時代中期の宝永二年(1705年)と安永四年(1775年)にそれぞれ修理されたことがわかります。
また、平成15年(2003年)にも半解体修理が行われました。
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20. 銅像阿弥陀三尊像 逗子3-1-17 延命寺 
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逗子の延命寺は、黄雲山地蔵密院と号し、行基が開創したと伝えられる真言宗の寺です。明治5年(1872年)の学制発布で 逗子小学校が開設され、同7年から12年の新校舎建設まで、当寺が小学校の機能を果たしていました。
延命寺は明治29年(1896年)の火災で大部分を焼失、大正12年(1923年)の関東大震災直後に再建されましたが、現在の本堂は昭和52年(1977年)に新造されたものです。
銅造阿弥陀三尊像は、元来は懸仏として鋳造されたもので、背面は省略、もとは逗子村鎮守八幡宮 (亀ヶ岡八幡宮)に祀られていたことが『新編相模国風土記稿』に記されています。
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像高10.6cmの阿弥陀如来坐像に8.5cmの観音・勢至菩薩立像を配しています。中尊は弥陀定印(上品上生印)
を結び、蓮台に座っています。鎌倉時代後期の作と考えられています。 小像ながら、ふっくらとした量感をもつ貴重な作品です。
木製の厨子に納められていましたが、昭和48年に風土記稿の記述に したがい、扇形の板材に取り付けられました。
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21. 木造十王及び奪衣婆坐像 桜山7-7-1 宗泰寺 
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仏の教えでは「六道輪廻」といって、生き物は死後、六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の どこかへ生まれ変わると考えられています。
次の生を受けるまでの間、閻魔大王を中心とする十王によって、 生前の罪が裁かれ、六道のどの世界へ行くかが決められるのです。 そのため生前に悪行を犯さないよう努め、また遺族はその取り調べの期日に合せて法要を営みました。
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帳面や筆を持って、罪を記録する王もいます。これらの十王はすべて如来・菩薩・明王の化身とされています。
また、冥土の入口、三途の川のほとりでは奪衣婆(だつえば)という鬼婆が待ちかまえ、 死者の衣服をはぎ取るともいわれています。
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十一体とも寄木造で、閻魔王(写真左)と奪衣婆(写真右)は玉眼嵌入、ほかは彫眼となっています。像高は、閻魔王が36.8cm、奪衣婆が30.3cm、他は24cm前後。
銘文により、この十王像は貞享二年(1685年)に鎌倉扇ヶ谷の仏師加賀によって造られたことがわかります。 近世の十王信仰を物語る貴重な作品です。
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22. 木造十一面観音菩薩坐像 沼間2-12-15 海宝院 
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十一面観音菩薩坐像は沼間の曹洞宗海宝院の本尊です。右手は掌を上に向けた与願印、 左手には水瓶を持っています。みけんに白毫(びゃくごう)と呼ばれる巻き毛、首には三道というしわをもちます。
冠帯(宝冠をとめるリボン)をたらし、胸飾をつけ、波打った裳の裾と 両袖を装飾的に台座から垂らしています。14世紀頃の制作と考えられています。 頂上仏面と後方面の前面部を欠損しています。
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本面と頭上面ともに玉眼をもち、肉身部は後補の漆箔です。寄木造、像高38.8cm、袖下まで55.3cm。 光背裏の銘文に、寛文十二年(1671年)に補造と修理がおこなわれたことが
記されています。光背と蓮台はこのときの後補。
十一面観音は、すべての方向を向いた顔をもち、あらゆる願いをきいてくれる仏です。本面の頭上、正面に慈悲面、 左側に瞋怒(しんぬ)面、右側に狗牙上出(くげじょうしゅつ)面のそれぞれ三面づつ、後方に暴悪大笑
(ぼうあくたいしょう:ぼうばくだいしょう)面が一面、頂上に仏果を示す阿弥陀仏面を一面で、 合計十一面となります。
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23. 緑釉唐草文瓶ほか一括 沼間2-1402 神武寺 
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第二次世界大戦中、神武寺境内のこんぴら山一帯が海軍用地として接収されることになりました。そのため、緊急避難措置として こんぴら山やぐら群の五輪塔が移動され、やぐらの内部に納められていたお骨などが掘り出されました(25.
こんぴら山やぐら群の欄を参照)。
その時に出土したのが火葬骨を納入した壺類です。写真左上は常滑三耳壷、右上は常滑壷、左下は渥美壷、右下は瀬戸三耳壷です。 これらは現在の愛知県の製品で、13世紀から14世紀に作られました。本来は酒などの液体を入れる器ですが、このように蔵骨器として使われることも多くありました。
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なかでも、首の長いらっきょう形をした緑釉唐草文瓶(高さ17.5cm)は当時の中国(元と思われます)からの輸入品で、 全国的に見ても他に類例がほとんどなく、きわめて貴重な遺品です。
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※ 写真:『湘南の古刹 神武寺の遺宝』(2004年 神奈川県立歴史博物館)より
24.菊座鈕小松流水文・散文双雀鏡、他硯二面 郷土資料館(原蔵は個人) 
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現在、披露山庭園住宅として切り開かれた場所に、かつて小坪大塚と呼ばれる小高い丘があり、明治20年(1887年)3月、 ここから和鏡と硯がそれぞれ2面ずつ出土しました。
写真右側の鏡は直径6.8cmで、中央のひもを通す部分に菊花、全体には松葉に流水文を配し、 上部の中央に雀が2羽向かい合っています。左の鏡は直径5.8cm、全面に松葉を散らした文様があり、
やはり上部に2羽の向かい合った雀が配されています。
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硯は三角形のものが10x8x6cm、長方形のものが6.25x11.0cmです。
これらの鏡と硯はいずれも鎌倉後期頃のものですが、同じ場所で写経石(写真下:経文を墨書した石)が拾われていることから、 もともとはここに経塚があって、そこに埋納されたものだろうと考えられています。
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25. こんぴら山やぐら群 沼間2-1402 神武寺 
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神武寺境内のこんぴら山の頂上から、池子への裏参道側にやや下がった南東向きの斜面に、幅、奥行きが 1m前後の小型なやぐら約24基からなるやぐら群があります。14〜15世紀ごろ、神武寺に関わりのある人々が
営んだものと推測されます。
第二次世界大戦中にこんぴら山一帯が海軍用地として接収される時、やぐらの内部に納められていた五輪塔やお骨などが移されたため (23. 緑釉唐草文瓶の欄を参照)、現在は四角い穴が開くだけで中にはなにもありません。
一般の人があまり立ち入ることもなく、うっそうとした木々に覆われ てひっそりと時を刻んでいます。
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26. みろくやぐら 沼間2-1402 神武寺 
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神武寺鐘楼の南東側の一段下がったところに、斜面中腹を切り開いた三日月形の平地があり、現在は墓地になっていますが、 その背後の崖にいくつかのやぐらが掘られています。
その中でもひときわ大きく、残り具合の良いやぐらがみろくやぐらです。 西側を向いて開口する主室は、幅4.6m×奥行6.4m、天井は屋根の形のように中央が高くなっていて、高さは3m以上あります。
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奥には石造の弥勒菩薩像が安置されています。その光背後側に刻まれた銘文から、この像が鶴岡八幡宮の舞楽師であった中原光氏 (なかはらみつうじ)の供養のために造立されたものであることがわかりますが、像が当初からこのやぐら内に納められていたものかどうかは
わかりません。
なお、左右の壁に掘られた穴のなかに安置された石塔(無縫塔)は、近世以降の神武寺歴代住職の墓塔です。

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27. 先祖やぐら横穴 沼間2-23-24 個人 
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神武寺の山から枝分かれして南にのびた尾根の先端の山腹 やや上方に位置し、南南東に向けて現況では単独で 開口しています。
横穴(おうけつ、よこあなともいう)とは、主に古墳時代後期(6,7世紀ころ)の墓で、平面の形は方形を基調とするものや楕円形に 近いものなど、時期等によって変遷がありますが、この先祖やぐら横穴は、奥に比べて前面の幅が狭い三味線の撥(ばち)のような形、
断面はアーチ形をしています。
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奥壁の奥に続く棺室(かんしつ)は、横長で隅の丸い四角形で、中には凝灰岩(ぎょうかいがん)製の五輪塔(ごりんとう)を安置しており、
桐ヶ谷氏の先祖をまつる墓所とも伝えられています。
この横穴は7世紀末 〜8世紀初頭頃に造られたものと思われ、古墳時代末期にこの沼間に暮らした人びとの中でも、 比較的有力な人の墓と考えられます。また、中世以降にこの穴をやぐらとして再利用したことがうかがえる典型的な例でもあります。
個人の敷地内にあります。見学するときは、必ずお断り下さい。
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28. 山の根谷装飾横穴 山の根2-1-6 個人 
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小さな谷戸が木の枝のように入り組んで複雑な地形を形づくっている山の根地区は、逗子市内でも横穴が多く分布する地域です。
その多くは崖の防災工事などで失われてしまっていますが、熊野神社境内などでは開いている横穴を見ることができます。
山の根谷装飾横穴は、久木に抜けるトンネルの手前脇を登った山上にあります。
過去の調査の結果、2穴のうち、左側の横穴の玄室内部が 丹(に)によって赤く塗られていることが明らかとなりました。周囲はコンクリート擁壁で覆われていますが、横穴の部分だけ埋めずに保存されています。
※がけ地のため、内部をご覧いただくことはできません。
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29. 六代御前の墓伝説地 桜山8-2013 六代御前史跡保存会 
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田越橋を逗子海岸に向かって曲がり、田越川沿いに少しゆくと、左手の山際に六代御前をまつる 墓碑があります。ケヤキとタブノキに囲まれた六代御前の墓は伝説地として、昭和53年に逗子市の史跡 に指定されました。
六代御前は、平正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛に続く平家嫡流の六代目で、名を高清(高盛とする説もある)といいます。 文治元年(1185年)、壇の浦の戦いで平氏が滅亡すると、母とともに京都嵯峨に身を隠していた六代も北条時政に捕らえられました。
しかし、高雄山神護寺の文覚(もんがく)上人の尽力で助けられ、妙覚と名を改めて仏門に入りました。
その後、六代は神護寺などで修行に励み、十数年の歳月が流れましたが、建久9年(1198年)に再び 捕らえられて鎌倉に送られ、 田越川のほとりで斬首されたということです(処刑の場所や没年については諸説あり)。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 おごれるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(巻一「祇園精舎」)の冒頭部分が有名な『平家物語』は、「田越川にて切られにけ
り。(略)それよりしてこそ、平家の子孫は永らく絶へにけり」(巻十二「六代」)で本編をおわっています。
現在の墓碑は斎田三左衛門尉平典盛が江戸時代に建てたものです。
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30. 「鐙摺の不整合」の露頭 桜山9-2448-4 逗子市 
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三浦半島と房総半島をつくる地層は、数千万年〜数百万年という長い時間をかけて、深海底で形成されたものです。 ちょうどプレートの境界にあたるこの地域は、現在でも年間
数ミリメートルの隆起が認められる地殻活動の活発 なところです。
逗子層の下部に基底礫岩層と呼ばれる、葉山層の砂岩、泥岩などの礫と貝の化石を含んだ地層があります。 基底礫岩層にはミウラホタテ・ミウラニシキ・ズシミノガイなど多くの貝の化石が見られます。
三浦半島の地層や地殻の変動についての詳しい説明は
シロウリガイのページへ
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市浄水管理センター建設の際に磯の大半が埋められましたが、その一角を埋めずにプール状にして、市指定文化財として保存してあります。 毎年草刈りや 清掃などの整備をおこなっていますが、すぐに苔や落葉、草などに覆われてしまうため、はっきりと
地層面を観察す ることは難しい状況です。
<図をクリックすると拡大します>
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31.神武寺周辺の岩隙植物群落(がんげきしょくぶつぐんらく)
沼間2-1402 神武寺 
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神武寺本堂

庫裡奥のイワタバコ群集(保護のため非公開)
※ 写真:『湘南の古刹 神武寺の遺宝』
(2004年 神奈川県立歴史博物館)より
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神武寺山は標高134m、鷹取山へとつづく 三浦半島のつけ根の丘陵地で、変化に富んだ自然が残る貴重な森です。
寺の周囲では、凝灰岩を切り取って参道や墓地、鐘楼などが建設されたため、岩の露頭が多く見られます。 そのような岩壁の土壌の浅い環境に耐えて生育する特殊な岩隙植物があります。コケ類の着生から始まり、ツタやシダ類が
付着し、やがてイワタバコが優位になって壁一面を覆うようになります。
これら神武寺一帯の岩隙植物群落は逗子市の天然記念物に指定されています。

本堂へつづく切通
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Photos by Y.Sato, T.Takahashi
October to December 2004
※ 本ホームページ作成に当たっては、各文化財所有者の方々に多大なご協力をいただきました。
<おもな参考文献>
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『逗子市文化財調査報告書第一集
『逗子市文化財調査報告書第二集
『逗子市文化財調査報告書第三集
『逗子市文化財調査報告書第四集
『逗子市文化財調査報告書第五集
『逗子市文化財調査報告書第八集
『文化財散歩 ふるさと・逗子』
『神武寺薬師堂保存修理工事報告書』
『逗子道の辺百史話』
『湘南の古刹 神武寺の遺宝』
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神武寺』
沼間・池子』
山の根・久木』
小坪・新宿』
逗子・桜山』
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(1970年 逗子市教育委員会)
(1971年 逗子市教育委員会)
(1972年 逗子市教育委員会)
(1973年 逗子市教育委員会)
(1974年 逗子市教育委員会)
(1979年 逗子市教育委員会)
(1978年 逗子市教育委員会)
(1992年 神武寺薬師堂保存修理委員会)
(1992年 三浦澄子編)
(2004年 神奈川県立歴史博物館)
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※ 神武寺所有文化財の写真の一部は神奈川県立歴史博物館のご厚意により、
またトップページバックの蝶文は『日本の染型』(2004年 青幻社)より、同社のご厚意により使用させていただいております。
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