国指定史跡 名越切通

名越切通とは

治承4年(1180年)に源頼朝が居を構えた鎌倉は、南方を海に、それ以外の三方を丘陵に囲まれた要害の地でした。そのため、陸路を鎌倉に入ろうとすると、その多くは細くて急な尾根越えの山道か、危険な波打際の崖下の道であったと思われます(古代の「古東海道」がこの地域を通っていたと考えられますが、具体的なルート等は明らかになっていません)。
13世紀前半、執権北条氏の権勢が確立する頃になると、鎌倉も政治経済の拠点として発展しますが、頻繁となる物資や人々の往来にとって、それまでの交通路は大きな妨げとなりました。その難渋を除くため、都市の基盤整備の一環として、後に「鎌倉七口」などと呼ばれる切通路が開削されたと考えられます。
名越切通は、鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路の一つです。周辺には、切通の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸、やぐらや火葬跡など葬送に関する遺構も多く分布していて、中世都市の周縁の歴史的景観を良く残しています。昭和41年(1966年)に国史跡に指定されました(昭和56、58、平成20、21年に追加指定)。
名越切通の史跡指定範囲(逗子市分)

名越切通の史跡指定範囲(逗子市分)

まんだら堂やぐら群とその周辺

「まんだら堂」の名が確認できる最も古い文献は、文禄三年(1594年)の検地帳です。しかし、そこには畠の地名として記されているのみで、「まんだら堂」がどんな建物だったのか、いつまで残っていたのかなど、詳しいことは全くわかっていません。

まんだら堂やぐら群は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いですが、150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重です。やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは言えませんが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたものです。葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられていますが、経済力を蓄えた商工業関係者なども含まれていたでしょう。
まんだら堂やぐら群の春

まんだら堂やぐら群の春

これまで、史跡整備のための情報収集等を目的として、部分的に発掘調査を行ってきましたが、平成13、14年度に実施した調査では、尾根の岩盤を大きく削って造った崖にやぐらを掘り、発生した大量の残土(岩くず)で前方の谷を埋め立てて平場を造っていることがわかりました。北西方向の鎌倉側を向いたやぐら群の前面平場では、柱穴などの遺構や、かわらけなどの遺物も多く発見されていますが、現在のまんだら堂入り口付近の平場では、遺構、遺物ともごく僅かしか出土していません。また、やぐら付近や周辺の平場などでは遺体を火葬したと思われる跡も各所で確認されています。ここで荼毘に付された方のお骨がやぐらに納められたのかも知れません。
岩盤を長方形に掘って造られた火葬址(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

岩盤を長方形に掘って造られた火葬址(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

出土した遺物から見たかぎりでは、鎌倉時代の後半(13世紀末頃)から平場の造成とやぐらの掘削が行なわれ、室町時代の中頃(ほぼ15世紀いっぱい)まで供養などが行なわれていたものと考えられます。

切通路の周辺に点在する平場も、中世に山を削って造られたものが多いようですが、それらが切通の防衛のために使われたものかどうかはわかりません。

平成18年度の発掘調査では、尾根上の岩盤をコの字形に粗く切り整え、その中央に切石を敷き並べた遺構が発見されました。この切石敷遺構の西側からは斬首されたと考えられるヒトの頭蓋骨1個が埋められた楕円形の土坑も発見されています。この遺構は、五輪塔などの石塔を据えるための基礎だった可能性が考えられます。あるいは、訳あって処刑された名のある方を供養するための施設だったのかも知れません。
切石敷遺構全景(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

切石敷遺構全景(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

暫首された頭骨の出土状況

暫首された頭骨の出土状況

大切岸(おおきりぎし)の評価をめぐって

大切岸は、長さ800m以上にわたって高さ3〜10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続する遺構で、従来から、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。
大切岸
しかし、平成14年度に発掘調査したところ、大切岸は、板状の石を切り出す作業(=石切り)の結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されました。

石切りが行われた時期ははっきりわかりませんが、堆積している土砂の上層に、江戸時代、宝永4年(1707年)の富士山噴火による火山灰が含まれていますので、それより古い時代であることは確実です。
14〜15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに切石が盛んに用いられていますので、名越の山中で大規模に石切りが行われたのも、その頃が中心ではないかと考えられます。
大切岸前で確認された石切跡(赤白の棒の長さは2m・埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

大切岸前で確認された石切跡(赤白の棒の長さは2m・埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

ただ、この結果のみをもって、大切岸に防御的な目的は一切なかったと即断することはできません。『吾妻鏡』の記事に見られるように、鎌倉は敵の攻撃を防ぐのに適した地形=要害と認識されていました。あくまでも推測ですが、このように大々的な石切りを行なっても、鎌倉の街を取り囲む尾根を安易に掘り割ることはせず、あえて城壁のような崖を残したのかも知れません。

現在の切通路とその景観について

いわゆる「鎌倉七口」で、切通路そのものを対象とした発掘調査は、名越切通以外では行われていません。
平成12年度に第1切通部分で通路を横断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。
第1切通の最も狭まった部分

第1切通の最も狭まった部分

平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。


以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。

また、平成21年度には、亀が岡団地口から入って切通路が第一切通に差しかかる手前の北東側、現道から約5m高いところにある平場でトレンチ調査を行いました。その結果、平坦な岩盤面を逆台形に掘り込んだ道路状遺構(いわゆる掘割り道)が発見されました。路面は5回ほど修築されており、幅は概ね1m未満と非常に狭いですが、15世紀中ごろ以前の遺構と考えられます。
掘割り状の道の断面(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

掘割り状の道の断面(埋め戻してあるため、現在はご覧いただけません)

新たに発見された道が、中世の「名越切通」の本道であるのかどうか、にわかには判断できませんが、これまで、鎌倉の護りの要として象徴的に取り上げられることの多かった名越切通の現在の景観が、中世の姿そのものではなく、かなり新しい時代になって形づくられたものであることが、改めて裏付けられたと言えるでしょう。

名越切通の保存と整備

名越切通は、昭和41年度に切通路部分とまんだら堂やぐら群エリアが国の指定史跡となり、昭和56年度に切通路の周辺一帯、昭和58年度に大切岸(一部鎌倉市域を含む)が追加指定されました。また、平成20、21年度には、やぐらなどの遺構が確認された鎌倉市域も追加指定もなされ、その範囲は全体でおよそ10ha、逗子市域はその半分の5haにも及びます。
空から見た名越切通(南から)

空から見た名越切通(南から)

周辺の丘陵に宅地等開発の波が及ぼうとしていた昭和53年度、最初の保存管理計画が策定され、昭和56、58年度の追加指定により一応の保護が図られると、しばらくの間は保存整備に向けた具体的な動きはありませんでした。
しかし、当初の指定から40年近くの歳月を経て、名越切通を巡る社会状況もさまざま変化する中、平成8年6月、第1切通で小規模な崩落が発生しました。これを契機に、過去から付託された国民共有の財産を、適切な維持管理のもとに保存、整備し公開活用を図る必要があるとして、平成12年度、新たな保存管理計画を策定しました。
平成13年度には、従来から風化が進行している切通路の崖面の崩落を防ぐため、専門の学識経験者からなる崩落対策検討委員会を設置し、崩落のメカニズムを解析し、崩落の抑止・抑制のための有効な対策の検討し、平成15、16年度に第1切通の保存工事を行いました。
現在は、整備委員会の指導助言の下、平成26年度を目途としたまんだら堂やぐら群の公開を目指し、整備事業を進めています。
また、これまで、史跡指定地の公有化を順次進めており、逗子市域における公有化率は9割に達しています。

アクセス

○ JR逗子駅バスのりば6番 亀ヶ岡団地循環(ミニバス)
緑ヶ丘入口 下車  徒歩8分  もしくは、亀が岡団地北 下車 徒歩5分
○ JR鎌倉駅バスのりば3番 緑ヶ丘入口行き
緑ヶ丘入口 下車  徒歩8分
案内図

参考資料

パンフレット

刊行図書

○逗子市文化財調査報告書 逗子市名越遺跡 昭和54年3月 ☆
○国指定史跡名越切通保存管理計画策定報告書 逗子市教育委員会 平成13年3月
○国指定史跡名越切通崩落対策検討報告書 逗子市教育委員会 平成16年3月
○神奈川県逗子市埋蔵文化財発掘調査報告書4 史跡名越切通確認調査報告 平成16年3月
○国指定史跡名越切通整備基本計画策定報告書 逗子市教育委員会 平成17年3月
○国指定史跡名越切通整備実施計画 逗子市教育委員会 平成19年3月
○国指定史跡名越切通崩落対策工事報告書 逗子市教育委員会 平成19年3月
○国指定史跡名越切通保存管理計画(別冊) 逗子市教育委員会 平成19年3月
その他参考
○『古都鎌倉』を取り巻く山陵部の調査 神奈川県教育委員会・鎌倉市教育委員会・財団法人かながわ考古学財団 平成13年3月

※情報公開課(市庁舎1階)、市立図書館2階郷土資料コーナーで閲覧できます。
☆印のもののみ、情報公開課で購入できます。

この情報に関するお問い合わせ先

教育部:社会教育課

電話番号:046-872-8153


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