逗子市内の重要文化財

 文化財は、国や地域の歴史、文化の正しい理解のために欠くことのできないものであり、貴重な国民的財産です。所有者や市民のみなさまのご理解とご協力のほか、文化財保護法、神奈川県文化財保護条例、逗子市文化財保護条例などの法令により保護措置を講じた文化財もあり、逗子市内の「指定文化財」は31件、「周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)」は143箇所にのぼります。
<ご注意>
  お寺や個人で管理されている文化財を拝観される際は、予め管理者の許可を得て、その指示に従ってください。 また、文化財は周囲の環境と一体になって、その地域の歴史を象徴するものです。周辺の草木などもいためないよう気をつけ、ごみは持ち帰るなど、十分にご配慮ください。

1. 五輪塔(石造 乾元二年銘)   池子2丁目 東昌寺

五輪塔

東昌寺 境内に祀られています。この五輪塔は、かつて葉山町堀内の慶増院にあったものと伝えられています。近世に無住となった慶蔵院は、昭和初期に葉山に別荘を持っていた政治家の高橋是清と犬養毅らの援助を得て再興されました。この際に寺名を「高養寺」と改められたのち、逗子市小坪の「波切不動」の再興に伴って、本堂と五輪塔が移築されています。

その後、高養寺が池子東昌寺持ちとなったことから、昭和51年(1976)、五輪塔は東昌寺に移設され現在にいたっています。
  安山岩製で高さ141センチメートル程度。水輪には金剛界大日如来をあらわす梵字の「バン」、地輪には「沙弥行心帰寂、乾元二年(1303)癸卯七月八日」の銘が刻まれています。鎌倉時代末期の中型五輪塔として、地域の基準となる貴重な文化財です。

2. 名越切通   逗子市 鎌倉市

 名越切通は、鎌倉の南側の山稜部に遺る峠道で、鎌倉と三浦半島とを結ぶ幹線道路の役割を果たしていました。江戸時代になって「鎌倉七口」と呼ばれた鎌倉の主要道のひとつでもあります。「鎌倉の地勢とその外部との連絡状況を示す重要な史跡」として、昭和41年(1996年)に文化財保護法に基づいて史跡の指定を受けました。

 岩盤を切り下げた道路遺構である「切通」の周辺には、150基を超えるおびただしい数のやぐらが集中することから、この場所が葬送に関わる場所としての性格も持ち合わせていたことが分かります。また、四角い石材を切り出した跡が断崖を呈する「大切岸」からは、大量の石材を産出していた様子が伺えます。

3. 和賀江嶋   小坪5丁目 逗子市、鎌倉市

干潮のとき、鎌倉材木座海岸の南端から沖に向かって、無数の玉石が見られます。これは和賀江嶋(わがえのしま)と呼ばれる、わが国に現存する最古の築港遺跡です。昭和43年(1968年)に文化財保護法に基づき史跡として指定されました。指定地の大部分が現在の鎌倉市域に含まれ、一部分が逗子市に該当しています。

 『吾妻鏡』によれば、この築港遺跡は、貞永元年(1232年)、材木座沖で難破する船の多いことを嘆いた往阿弥陀仏という僧の願いを入れ、鎌倉幕府の執権北条泰時らの協力によって、一ヶ月で築かれたとされています。

 宋の貿易船など、東アジアまで連なる交易の窓口として、幕府にとって重要な役割を果たしました。現在でも、浜に陶磁器片が打ち上げられることもあります。

 現在は、満潮時にはほぼ海面下に沈んでおり、大潮の時などには桟橋状に姿を現すこともあります。江戸時代までは手を加えながら利用されていたとされ、その後も玉石の散逸が続いたことから、建造当初の和賀江嶋の姿は分かっていません。

4. 長柄桜山古墳群   逗子市、葉山町

 長柄桜山古墳群は、逗子市と葉山町の境界をなす標高100メートルから120メートルほどの丘陵上に位置し、500メートルほどの距離を隔てて2基が確認されています。

 第1号墳は、全長91.3メートル、第2号墳は全長約88メートルと大形の前方後円墳で、保存状態も良好です。 1号墳からは東京湾を、2号墳からは相模湾−江ノ島・伊豆半島、富士山を眺望することができる絶好のロケーションです。

5. 神武寺薬師堂 附棟札三枚   沼間2丁目 神武寺

薬師堂

 医王山神武寺は、緑豊かな沼間の山稜に位置し、いまも山岳信仰の面影を伝える古刹です。
 縁起によれば、その歴史は奈良時代、神亀元年(724年)聖武天皇の命を受けた行基が、この地に十一面観音と釈迦・薬師如来を祀ったことに始まります。鎌倉時代には、源頼朝をはじめ幕府の厚い崇敬を受けたことが知られ、『吾妻鏡』には、北条政子の安産祈願に際して当寺に神馬を奉納したことや、実朝が参詣した記事を見ることができます。鎌倉幕府の滅亡以後、関東の動乱のなかでも、多くの人々の信仰や、江戸幕府の寄進を受けて寺勢を保持し、静寂な佇まいを留める天台の聖地です。
 薬師堂は、縁起により文禄3年(1593年)建立と伝えられ、その数度にわたる修理の記録が見られます。現在の建築の主要部分は、棟札や墨書などから寛文六年(1666年)に再興されたものと考えられています。

 その建築は、平面が正方形の三間堂で、寄棟屋根がかけられています。影響がみられるほか、中央の仏壇は折衷様、側廻りの木取りや格天井がはられた内部のつくりは和様の性質がうかがえます。茅葺きで風化が進んだ屋根は、平成4年(1992年)竣工の大修理によって銅板葺に改修されました。この際、幕末に増築された向拝を撤去して本来の姿に近づけています。

 神武寺薬師堂は、伝統ある鶴岡八幡宮大工一派の手による建築とみられ、江戸初期の鎌倉近辺における古様な和風三間堂として重要な遺構です。昭和60年(1985年)に神奈川県文化財保護条例に基づき重要文化財の指定を受けました。

6. 絹本着色大威徳明王像   沼間2丁目 神武寺

大威徳明王像 【解説】
絹本著色 縦128.2センチメートル 横68.2センチメートル

大威徳明王は五大明王(不動、軍荼利、降三世、大威徳、金剛夜叉)中の一尊であるが、時に怨的調服、戦勝祈願の本尊として単独にとりあげ、信仰された。本図はその一例で、忿怒相のすさまじい像である。(中略)鎌倉時代後期の制作と推定され、県内に遺存する密教画の優品として高く評価される一幅である。

(「逗子市史 別編II考古・建築・美術・漁業編」逗子市1995より引用)

7. 絹本着色千手観音像   沼間2丁目 神武寺

絹本着色千手観音像 【解説】
 絹本著色 縦84.3センチメートル 横33.1センチメートル
 千手千眼観自在菩薩と正式には称する。千の慈手を有し、その手にはひとつずつの慈眼を備えて、衆生を救う慈悲深い観音として古来広く信仰された。(中略)像の肉身には金泥を塗り、着衣には細緻な切金文様をほどこすなど、金彩の美しい作である。(中略)鎌倉時代後期の制作と推測され、横浜弘明寺本とともに、県内に遺存する千手観音図古作の貴重な一本である。

(「逗子市史 別編II考古・建築・美術・漁業編」逗子市1995より引用)

8. 木造阿弥陀如来立像   沼間2丁目 光照寺

開宮山光照寺 木造阿弥陀如来立像 開宮山光照寺は、田越川の畔に位置する真言宗のお寺です。開創の時期は明らかとなっていませんが、『新編相模国風土記稿』に逗子村延命寺の末寺として記載されています。

【解説】
 寄木造 玉眼 漆箔 像高94.7センチメートル
 
 衆生を救うために四十八の大願をたてたといわれる西方極楽浄土の救主阿弥陀如来への信仰は、わが国でも七世紀には根をおろした。しかし、この如来の救済力にすがり、死後極楽に往生したいと願う信仰が飛躍的に発展したのは平安時代に入ってからで、鎌倉時代に「南無阿弥陀仏」の念仏の教えがひろがると、阿弥陀信仰はいっそう人びとの心をとらえ、以後もそれがうけつがれていった。(中略)
 光照寺像は蓮華座の上に立ち、肘を曲げた右手、垂下した左手ともに第一指と第二指とで輪を作る。いわゆる上品下生印で、現世を去ろうとする信者を成仏させるため極楽から迎えに来てくれる阿弥陀仏がしばしば結ぶ印とされ、来迎印とも呼んでいる。(中略)
 眼差のやや鋭い整った顔立・張りの強い面部・腹部の複雑な衣の襞などは、よく中世の写実性を示す。(中略)いわゆる慶派の流れを汲む仏師の作品であろう。(中略)市内に伝わる鎌倉時代後期の佳作である。
(「逗子市史 別編II考古・建築・美術・漁業編」逗子市1995より引用)

9. 銅鐘(応永十年銘)   沼間2丁目 海宝院 ※応永十年:1403年

長谷山海宝院 銅鐘  長谷山海宝院は、神武寺の位置する丘陵の南側に位置する曹洞宗のお寺です。
 室町時代の末期、徳川家康が関東の治世にあたっていたころ、駿河国(現、静岡県)出身の僧、支源臨乎が横須賀村(現、横須賀市)の良長院をここに移し、院号を改めたと伝えられています。この際に、県令長谷川七左衛門長綱が支援したことから、境内奥に長綱をはじめ一族の墓が祀られています。
 銅鐘は本堂にあり、銘文が陰刻で刻まれています。
【解説】
 総高100.6センチメートル 龍頭18.5センチメートル 笠形4.2センチメートル 鐘身78センチメートル 撞座高18センチメートル 撞座径10.8センチメートル 駒爪高2.3センチメートル 駒爪厚2.3センチメートル 口径52センチメートル
 本鐘が海宝院にあることについて寺伝は「往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして徳川幕府のころ当郡高山城則北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き其の後当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成当院建立の際納められし鐘也」といい、「三崎志」古蹟の部には、「○陣の台菊名にあり道寸陣鐘此処にありしを文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」とある。新編相模(国)風土記稿には「菊名」の項に「陣場‥北条早雲陣営せし処といふ」とある。これらを総合すると北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる。
(『逗子市文化財調査報告書 第二集』逗子市教育委員会1971より引用)

10. 五霊神社の大イチョウとその周辺の樹木   沼間3丁目 五霊神社

五霊神社 大イチョウ  沼間の五霊神社(ごりょうじんじゃ)は、天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祭神とし、逗子市内で最も長い歴史を持つ神社の一つです。

 境内の中央付近に、樹齢500年を超えるともいわれるイチョウの大木があります。

幹周6メートル、高さ25メートルを測る大イチョウのまわりには、タブノキ、ケヤキ、イヌマキ、スダジイ、ヤブツバキなどの暖帯性海岸広葉樹が分布しています。それらの木々は、肉厚の葉でツヤがあり、光をよく反射することから、照葉樹と呼ばれています。

 鎮守の森として守られてきた境内の樹林は、この地域の本来の植生を見ることができる希少な例として、昭和42年(1967年)に、大イチョウを含む社叢林一帯が神奈川県文化財保護条例に基づく天然記念物に指定されました。

11. 鐙摺の不整合を示す露頭   桜山9丁目 逗子市

鐙摺 鐙摺の不整合を示す露頭のスケッチ

「鐙摺」は、海づたいに現在の葉山町と接する一帯です。この周辺は、起伏に富み往来に不自由な地形をなしており、「新編相模風土記」には、その道の狭さのため源頼朝が鐙を摺り、これに由来して「鐙摺」と称されたとあります。
 現在は、丘を切り通して道路が敷設されたり、海浜部を埋め立てたために景観が変貌していますが、これらの造成にあたって地盤が露出し、地層が良く観察できる箇所も現れました。

 三浦半島が、古く海底にあった地層の隆起によって形成されたことは、よく知られています。
 上下に相重なった地層の形成時期の間に時間的な大きな開きがあるとき、これを不整合といいます。約2,500万年前に堆積した「葉山層」の上に、約1,500万年前に形成された「逗子層」が重なった模式的な地層不整合で、逗子層の下部基底礫岩層には貝化石が多く観察されます。このような堆積状況が良く観察できる2箇所のうち、西側の1箇所を逗子市文化財保護条例により、東側の1箇所を神奈川県文化財保護条例により、天然記念物として指定されています。

12. 逗子市池子遺跡群出土品   池子遺跡群資料館 逗子市

池子遺跡群 木で作られた道具  池子遺跡群は、その敷地が昭和12年(1937年)に旧帝国海軍によって接収されて以来、約60年の間、立入りが制限されていたことにより、現代の開発行為によって破壊されることなく、多くの遺構、遺物が良好な状態で残っていました。

 池子遺跡群の中で米軍住宅地区の造成が計画されたことを受け、財団法人かながわ考古学財団が平成元年(1989年)から同6年(1994年)にかけて、発掘調査を実施しました。
 米軍への提供用地総面積288万平方メートルのうち、発掘調査の対象となった面積は約12万平方メートルです。この調査で出土した遺物は、約1万2千年前以前の旧石器時代時代から、明治、大正時代に至るまでの全ての時代におよび、その数は2万点以上にのぼります。この地域にくらした人々の長い歴史が、生活の痕跡から明らかとなった例として、貴重な成果が挙がりました。
 中でも注目すべきは、木で作られた道具が、良い状態で大量に発見されたことです。特に調査区南端部で検出された埋没した川の流路跡からは、鍬などの農具が大量に発見され、弥生時代の農業の様子を知るうえで全国的にも重要な発見となりました。
 これらの木製品を中心に、弥生時代の遺物241点が神奈川県文化財保護条例に基づき重要文化財(考古資料)に指定されました。
 ※ 資料館の見学は事前申し込みが必要です。詳しくは下記ホームページをごらん下さい。

13. 観音堂   久木5丁目 岩殿寺

岩殿寺  寺伝によれば、岩殿寺は、養老五年(721年)から同六年(722年)にかけて、徳道、行基両聖人の開基により、海前山と号した真言宗の寺であったとされます。(「新編鎌倉志」には養老四年(720年)、行基の開基とあり。)

 鎌倉時代には、源頼朝、政子、実朝らが参詣したことが「吾妻鏡」に見られ、源氏の崇敬が厚かったことが伺えます。「新編鎌倉志」「新編相模国風土記稿」によれば、その後衰廃したところを17世紀初めに県令長谷川七左衛門長綱が曹洞宗海宝院の末寺として中興し、海雲山護國院と改めたとされています。
 現在の観音堂の建築は、その様式や棟札により、享保十三年(1728年)の再建によるものと考えられています。桁行3間、梁行5間の寄棟造りで、小規模ながら平面の基本は中世以来の伝統的な密教本堂形式をとり、軸部には禅宗様の本格的な意匠である二手先(ふたてさき)と呼ばれる組物を用い、さらに細部には江戸時代的な和様の意匠がみられます。
 もとの屋根は茅葺でしたが、昭和63年に解体修理が行なわれ、茅形銅板葺に改修されました。鎌倉地方の近世寺院建築様式の変遷を知るうえで重要な建築といえます。

14. 四脚門   沼間2丁目 海宝院

四脚門  海宝院参道の正面に切妻造茅葺、朱塗りの門があります。 主柱2本の正面と背面にそれぞれ2本づつの側柱をたてたものを四脚門といいます。

 海宝院は、寛政二年(1790年)、本堂や山門など堂舎の大半を焼失する災禍に見舞われましたが、この門だけは被害をまぬがれたものと思われ、海宝院創建時の建築であると考えられます。

 桁行3.14メートル、梁行2.78メートル、標準的な禅宗様四脚門の形式をもち、木鼻(きばな:下記参照)の渦文などに室町時代の様式の 特徴がみられます。
 平成16年(2004年)に半解体修理、屋根の葺き替えが行われました。

貫や肘木などの横材が、柱や組物から突き出た部分を木鼻と呼びます。 絵様や繰形などの装飾が施されており、地域や年代によって変化しました。

海宝院の門は鎌倉地方の室町時代末期の特徴をよく示す江戸時代初期の建築として重要な価値があります。  久木の妙光寺や池子の東昌寺の四脚門は、これに続く時期のものと考えられます。

15. 木造不動明王立像   沼間 2丁目 神武寺

木造不動明王立像  慈悲の心でひとびとの苦しみを救う如来や菩薩などの仏像に対して、明王は武器を持ち恐ろしい怒りの形相をあらわしています。仏の教えに背く悪をこらしめ、正しい道に導くのが明王です。中でも不動明王は、「お不動さま」として庶民に親しまれ、勇猛な姿から武家の信仰を集めました。

 像高51.8センチメートル、燃え上がる火炎を背に岩座に立ち、頭上には頂蓮をいただき、左肩に弁髪を垂らしています。右手に三鈷剣、左手には羂索(けんじゃく)と呼ばれる邪悪を捕らえる投げ縄をもっています。木造寄木造で玉眼が嵌入され、衣文には朱・緑・胡粉などの彩色が施されています。

 鎌倉時代後期の作とされていますが、表現に形式化がみられるなど、後世の模古作の可能性も指摘されています。現在は鎌倉国宝館に寄託されています。

16.木造薬師如来坐像及び日光・月光菩薩立像    沼間 2丁目 神武寺

木造薬師如来坐像 日光・月光菩薩立像  如来とは、悟りをひらいた仏のことで、虚飾や欲をもたない納衣をまとっただけの姿です。阿弥陀如来があの世での救いを与えてくれるのに対して、薬師如来はこの世の病の苦しみから救ってくださる 一般に薬師如来には日光・月光(がっこう)菩薩の脇侍がついて三尊形式をとります。菩薩は悟りを求めて修行中の仏で、宝冠や首飾り、腕輪などの装飾を身につけています。
 
 当三尊像は神武寺薬師堂の中央の厨子に祀られる本尊です。中尊の薬師如来像は坐像で、寄木造、像高69.8センチメートル、目は玉眼を用いず彫眼。右手でひとびとの願いをかなえる施無畏印(掌を開いて前に向ける)をとり、左手に薬壺をもっています。頭髪はふつうの如来像にみられる螺髪(らほつ)ではなく、同心円状の縄目が刻まれています。

 両脇侍は宝髻(ほうけい)を結い上げ、天衣(てんね)をまとい、日月輪の蓮華を左右対称にもって蓮華台に立っています。どちらも寄木造、像高58.0cm、59.5cm。中尊が彫眼であるのに対し、脇侍は玉眼が嵌入されています。

 三尊像はいずれも室町期の仏像彫刻の特徴を示しており、制作は15世紀半ばから16世紀頃と考えられています。

 厚い信仰の根本となる霊像として、古来より三十三年に一度の御開帳以外は秘仏とされています。次回は 2017年ですが、毎年12月13日の午前中におこなわれる煤払いの法会の際、拝観することができます。

17. 木造阿弥陀如来坐像   池子 2丁目 東昌寺

阿弥陀堂 阿弥陀如来坐像  池子の東昌寺は山号を青竜山と称し、真言宗に属します。寺伝では、鎌倉幕府滅亡の際に執権北条高時らが最期を遂げた鎌倉葛西ヶ谷の東勝寺が移されたものとされています。

 山門の右手にある阿弥陀堂に県内でも珍しい丈六の阿弥陀如来坐像があります。
 
 高さ103.5センチメートル、径282.5センチメートルの台座に安座する如来は、像高259.5センチメートル(肉髻部を欠損)、輪光背をいただき、上品下生の来迎印を結んでいます。寄木造、玉眼嵌入、肉身部に朱と金泥の彩色、面部には金粉の名残がみられます。
 胎内銘などによると、もとは運慶作と伝えられる阿弥陀如来像があったようですが、享保十二年(1727年)に火災で焼失し、宝暦六年(1756年)に現在の堂と像が再興したとされています。仏師は鎌倉扇ヶ谷の三橋宮内忠之とその息子であることが胎内墨書銘に記されています。三橋家は後藤家とならんで、有力な鎌倉仏師のひとつです。

 大正十二年の関東大震災で被害を受け、後頭部・頭頂部を欠損し、左掌に穴があいています。

18. 木造阿弥陀三尊立像   小坪5丁目 海前寺

海前寺本尊 中尊阿弥陀如来像 【解説】
 海前寺本尊。中尊阿弥陀如来像は、いわゆる上品下生の来迎印を結び、観音菩薩像は蓮台を捧げ、勢至菩薩像は合掌する。両脇侍菩薩像は上体を前にかがめ、腰をひき、動的な姿勢を示す。典型的な来迎の三尊像である。

 胎内に文政十三年(1830年)の修理を示す銘札が納入されている以外、造立時、作者等についての記録類は残らない。
しかし、張りの強い中尊の面部、幾分形式化しているものの写実性を持つ衣紋など、室町時代の作風をそなえ、仏乗院本尊像と並んで逗子市内の遺品としては貴重である。なお、光背、台座、箔などは後補である。

 (昭和47年7月28日付け 指定理由書)

19. 木造阿弥陀如来立像   小坪 4丁目 仏乗院

木造阿弥陀如来立像  【解説】
 仏乗院の本尊。右手は屈臂、左手は垂下し、いずれも第一指と第二指を捻じ、いわゆる上品下生の来迎印を結ぶ。両手先・両足先のほか、光背・台座などは後補、胸部内側に「永正十年八月日彩色也[   ]□□□□□□」という墨書銘があり、永正十年(1513年)に修理されたことがわかる。胎内背面にも墨書銘があるが、現状では判読できない。また、胎内に宝永2年(1705年)と安永4年(1775年)の修理を記した文書二通が納入されている。
 

像は低めの頭髪部・強い曲線を描く髪際・賑やかに刻んだ衣の襞など、宋元風の特色がめだつ。目鼻立の整った面部や複雑な衣襞の表現は的確で柔軟な写実性を備え、鎌倉時代後期の作風をよく伝える。市内の中世彫刻の遺作中、屈指の佳作である。

(昭和47年7月28日付け 指定理由書)

20. 銅像阿弥陀三尊像   逗子3丁目 延命寺

延命寺 銅造阿弥陀三尊像  逗子の延命寺は、黄雲山地蔵密院と号し、行基が開創したと伝えられる真言宗の寺です。明治5年(1872年)の学制発布で逗子小学校が開設され、同7年から12年の新校舎建設まで、当寺が小学校の機能を果たしていました。
 
 延命寺は明治29年(1896年)の火災で大部分を焼失、大正12年(1923年)の関東大震災直後に再建されましたが、現在の本堂は昭和52年(1977年)に新造されたものです。

 銅造阿弥陀三尊像は、元来は懸仏として鋳造されたもので、背面は省略、もとは逗子村鎮守八幡宮(亀ヶ岡八幡宮)に祀られていたことが『新編相模国風土記稿』に記されています。

 像高10.6センチメートルの阿弥陀如来坐像に8.5センチメートルの観音・勢至菩薩立像を配しています。中尊は弥陀定印(上品上生印)を結び、蓮台に座っています。鎌倉時代後期の作と考えられています。小像ながら、ふっくらとした量感をもつ貴重な作品です。

 木製の厨子に納められていましたが、昭和48年に風土記稿の記述にしたがい、扇形の板材に取り付けられました。

21. 木造十王及び奪衣婆坐像   桜山7丁目 宗泰寺

木造十王及び奪衣婆坐像1 木造十王及び奪衣婆坐像2 木造十王及び奪衣婆坐像3

 仏の教えでは「六道輪廻」といって、生き物は死後、六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のどこかへ生まれ変わると考えられています。

 次の生を受けるまでの間、閻魔大王を中心とする十王によって、生前の罪が裁かれ、六道のどの世界へ行くかが決められるのです。そのため生前に悪行を犯さないよう努め、また遺族はその取り調べの期日に合せて法要を営みました。

 帳面や筆を持って、罪を記録する王もいます。これらの十王はすべて如来・菩薩・明王の化身とされています。
 また、冥土の入口、三途の川のほとりでは奪衣婆(だつえば)という鬼婆が待ちかまえ、死者の衣服をはぎ取るともいわれています。
  十一体とも寄木造で、閻魔王(写真左)と奪衣婆(写真右)は玉眼嵌入、ほかは彫眼となっています。像高は、閻魔王が36.8センチメートル、奪衣婆が30.3センチメートル、他は24センチメートル前後。

  銘文により、この十王像は貞享二年(1685年)に鎌倉扇ヶ谷の仏師加賀によって造られたことがわかります。近世の十王信仰を物語る貴重な作品です。

22. 木造十一面観音菩薩坐像   沼間 2丁目 海宝院

木造十一面観音菩薩坐像
【解説】
 海宝院の本尊。頭頂に仏面をいただき、左手に水瓶を持ち、蓮台(後補)上に座る。頭上面は十面、化仏は欠失。二重円光に透彫縁光を配した光背は後補。内身部は漆箔(後補)。衣文部は彩色。背面には胡粉盛上の文様がよく残る。底は布貼り。毛髪の刻出をはじめ、膝部の丸み、衣のひだの表現などにはかなり神経がゆきとどき、写実性も保たれている。両袖や裾を垂下し、膝を幾分俯瞰的に表現するこの種の形は14世紀前後の東国で相当広く流行したいわゆる宋風のひとつである。

 海宝院像の場合、たとえば足利尊氏の念持仏と伝える鎌倉宝戒寺蔵の厨子入木造地蔵菩薩坐像や至徳三年(1386年)銘の埼玉県飯能市木造地蔵菩薩坐などに類似する点が認められる。

 南北朝時代から14世紀後半頃の作品と見てよい。後補部や仏面前部の欠失などが目立つものの、逗子市内の仏教彫刻中では珍重すべき佳作である。なお、光背裏面には長文の朱書銘があり、寛文十二年(1671)に大がかりな修理がおこなわれたことがわかる。

 この銘文は海宝院の寺史を考える上にも貴重な資料である。また、本像は当寺の開基長谷川七衛門長綱が徳川家康から与えられた像という。

(昭和49年12月2日付け 指定理由書)

23. 緑釉唐草文瓶ほか一括   沼間 2丁目 神武寺

長頸瓶 壷  【解説】
 神武寺こんぴら山やぐら群から出土した薤形の長頸瓶である。
 口縁部は欠損し、頸部に四沈線がめぐらされている。下ぶくれの丸胴の上部にも三沈線がめぐらされており、その上に獣面付双耳がついている。焼きしまった地肌に化粧がけがなされ、その上に胴の下部を残して鮮やかな緑釉がかけられている。胴部全面には黒色で豪放な渦文が無秩序に描かれている。
土の厚さは3.5ミリメートルから4ミリメートルで、胴の内面には轆轤目がめだっている。現在の高さは17.5センチメートル、胴径10.4センチメートル、底の径6.8センチメートルである。

 小山富士夫氏は「中国北方地区の古陶で、元の時代に作られたものと思われる。」とされ「極めて珍重すべき遺品である。」と語っておられる。現在、朝鮮のソウル博物館に同じ陶器の完形品が所蔵されているという。日本の国内では、鎌倉から同質の陶片数個が出土しているだけで、極めて貴重な品である。

 同やぐら群から出土した鎌倉末期から室町初期にかけて作られたと思われる次の資料などと共に文化財として指定する価値が十分にあるものと思われる。

 常滑壷(1号穴出土)
 常滑三耳壷(2号穴出土)
 常滑壷(3号穴出土)
 須恵質高台付三耳壷(4号穴出土)
 常滑焼小壷(5号穴出土)
 須恵質灰釉壷(6号穴出土)
 

(昭和49年12月2日付け 指定理由書 一部改変)

24.菊座鈕小松流水文・散文双雀鏡、他硯二面   桜山8丁目 郷土資料館 (原蔵は個人)

散文双雀鏡 硯 硯

【解説】
 明治20年3月26日小坪村881番地通称大塚の松の根元より出土した和鏡2面と硯2面である。いずれも鎌倉後期の作と思われる。

 小松散文双雀鏡も細線の単圏をめぐらし縁は直角式中縁、高さ4.5ミリメートル、直径58ミリメートルでわずかに反りがみられる。硯の一つは黒灰色石製で矩形をなし6.25センチメートル×11センチメートル、高さ1.2センチメートル、断面は上面より下面が小さくなっている。池の部分も陸の部分も側壁は垂直でなく内面に斜に切ってある。上面の四隅には細い沈線が周縁幅と同じほどの輪郭をめぐらし、その内に数本の波状文を刻んで装飾としている。

 もう一つの硯は不等辺三角形で淡いあずき色の石である。10センチメートル×8センチメートル×6センチメートル、高さ1センチメートル断面は下に狭くなっている。上面には周縁をめぐらし、尖った部分に小さい池を作っている。池の部分も陸の部分も側壁は内面に切ってある。

 断面が下に狭くなっていることと、池などの側壁が内面に斜に切られている等の手法は、鎌倉期硯の特色である。
 鏡も硯も共に出土地と作製年代がはっきりしている点できわめて貴重な遺品である。文化財として指定する価値が十分にあるものと認める。

(昭和49年12月2日付け 指定理由書)

25. こんぴら山やぐら群   沼間2-1402 神武寺

こんぴら山やぐら群 【解説】
 こんぴら山山腹東南面に横に一列に並んでいる。戦時中軍用地となったために立ち退きを命ぜられ急ぎ塔婆や納骨を他に移したので内部には何も残っていない。多く前面を崩されているが鎌倉末期から室町期にかけて営まれたもので前面にテラス状広場をもつ。

神武寺関係者の墳墓窟と考えられる。

(昭和45年5月1日付け 重要文化財指定同意書)

26. みろくやぐら   沼間2丁目 神武寺

石像 【解説】
 ひくい合掌形天井をもつ方形大形のやぐらで、前壁は崩れて失われた。窟中央に凝灰岩台石上に安座する安山岩製一石作りの石像がある。厚肉彫で舟形光背を負い連座上に安坐し頭に宝冠をいただき右手は屈臂外掌、左手は膝上に垂れている。

鎌倉期作、背に「大唐高麗舞師本朝神楽博士従五位上行左近衛将監中原光氏行年七十三正應三年庚九月五日」と刻する。

 背後の壁に納骨穴がある。鶴岡八幡宮舞楽士中原光氏の墳墓窟で墳葬者の俗名を知ることのできた唯一のやぐらである。左右壁の龕や墓石は後世のものである。
(昭和45年5月1日付け 重要文化財指定同意書)  

 なお、左右の壁に掘られた穴のなかに安置された石塔(無縫塔)は、近世以降の神武寺歴代住職の墓塔です。

27. 先祖やぐら横穴   沼間2丁目 個人 所有地

先祖やぐら横穴
【解説】
 神武寺参道から東南にのびた尾根先が、桐ケ谷氏裏に達した部分の東側山腹にあり、中ほどよりやや上方に位置し、南南東に向けて開口する単独の一穴。地主桐ヶ谷政次氏先祖をまつる墓所と伝え、内に凝灰岩製五輪塔一基を安置する。

 玄室平面形は、奥幅にくらべてわずか前幅の狭い台形であり、断面アーチ形。奥壁はアーチ形でほぼ垂直に立つが凹面をなし、凹面の中央にその奥に続く棺室の入り口がある。玄室前壁は退化してわずかに障壁状として羨道との境に残る。羨道は次第に幅を減じて羨門に至る形。玄室と羨道との間に前壁の名残を残す障壁状部分がなければ奥幅が最も広く、前方に進むにつれて幅を減じ玄室と羨道との境がなく、羨門に達する最末期形態の横穴と同形であり、その上奥壁中央形態に入口をもつ棺室がその奥に設けられていることになる。玄室床面傾斜は百分の六。左右壁下に排水溝があり、排水溝を除く部分が棺座状となり、玄門外に30センチメートルばかり張り出している。羨道床は12センチメートル低くなる。羨道天井は崩壊しているが、断面はアーチ形である。羨門外にあるべき前庭部は前方約1メートルのところで崩壊しているので、羨門外壁が急に左右に広がることだけしか分からない。棺室は横長隅丸矩形平面をもち、アーチ形断面の筒形平入構造である。棺室奥半分には低い棺座があり壁面に接して奥と左右に排水溝がある。

 古く内部が掘り荒らされたので、須恵器と土師器の小片がわずかに内部に散乱していただけである。それらの破片から、もと須恵器高台付長頸瓶3個、平瓶1個、甕1個と土師器坏2個があったことがわかった。ほかに鎌倉時代の素焼小皿の断片が多数あったが、これは鎌倉期にこの横穴が再び墳墓の穴として使われ、五輪塔がたてられたときの灯明皿である。

 この横穴は、逗子としては大きいものであり、その上壁面がきれいに仕上げられている。玄室と羨道との境には前壁の名残が枠状に残っている。遺物と横穴の形とから8世紀(奈良時代)のものと判断され、古代沼間住民中比較的有力な者の墳墓と考えられる。後世(鎌倉後半期)沼間に住んだ有力な武士がこの穴を墳墓堂として利用したことが明らかである。

(昭和46年11月26日付け 指定理由 一部改変)
 
※個人宅内にあります。見学するときは、予め必ずお断り下さい。

28. 山の根谷装飾横穴   山の根2丁目 個人 所有地

山の根谷装飾横穴
【解説】
 山の根2丁目個人宅裏山の山腹にある横穴古墳である。宅地造成によって発見されたもので、同形2個の穴からなっている。左の穴(1号穴)は、側壁から天井にかけて塗られた煉瓦色がかなりよく残っている。この横穴は屍を納める室の前壁が退化して失われ、その前方にあったせまい部分と、ひと続きになってしまったものであるが、この部分から低くなっている。奥壁に接して高い座があるのは、棺を安置する所であるが、横長に掘りくぼめてあるのは、造り付けの棺である。屍をここに納めたものと思われる。最初の横穴は、家形に作られたものであったが、次第に退化してこのような形に作られるようになった。
 この横穴は、奈良時代後半期の墳墓である。天井や壁を丹色に塗って装飾してあるのは、古代寺院において、天井を丹塗りにしたのと同じ考えによるものと思われる。このように全面を丹塗りにした横穴は、本県内でも珍しく、文化財として指定する価値が十分にあるものと認める。

(昭和47年8月18日付け 史跡指定理由書 一部修正)

※現在は、切り立った崖面の中腹に位置し、大変危険ですので、立ち入りはできません。

29. 六代御前の墓伝説地   桜山8丁目 六代御前史跡保存会

六代御前の墓伝説地
【解説】
 六代御前が、田越川の畔で斬られたという物語の出所は、「平家物語」の「安判官資兼に仰て召捕って関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて切られてンげり。」という一節の記述で、現在入手できる唯一の拠り所であり、他にこれを求めることはできない。

 「平家物語」にも、異本がいろいろあり、六代の処刑地について、長門本や延慶本なは「千代松原」とし、中印本は「六浦坂」と、まちまちである。ほかに保暦間記は、「芝という所」としている。

 このように、いろいろな説があり、「六代御前の墓」についても、確実なところはまだわかっていない。ただ、「新編相模国風土記稿」や「新編鎌倉志」等を初めとして。多くの「史跡・名勝案内書」の類が、田越川の畔、逗子市桜山字柳作にある塚を、「六代御前の墓」として紹介している。また土地の伝承も、この塚が「六代御前の墓」であることを、代々引き継ぎ、江戸の昔から大切に祀って来ている。

 確実な歴史的根拠に立って、無条件に「史跡指定」を認めることには、多少の無理を伴うが、土地の伝承を大切にすることも亦、郷土愛を育てることにつながり、市民の文化財保護の意識を高めることに役立つという立場から、「六代御前の墓伝説地」として、史跡に指定することが妥当であると考える。

(昭和53年2月21日付け 指定理由)

30. 「鐙摺の不整合」の露頭   桜山9丁目 逗子市

「鐙摺の不整合」の露頭
【解説】
 この露頭は、三浦半島でいちばん古い葉山層群の上に、これより若い逗子層が斜交不整合の関係で重なっているところである。1925年渡辺久吉博士によってみいだされたもので、「鐙摺の不整合」を示す露頭として知られている。

 この露頭で、下位の葉山層群は主として砂岩からできている。地層面は見分けにくいが、走向ほぼN30度Wでほとんど直立している。逗子層はシルト岩、砂礫岩の互層からなり、走向N80度E、北に約30度傾斜する。逗子層の基底には角礫からできた基底礫岩(中に化石を多産する)がみとめられ、これと葉山層群とは侵食によって生じた凹凸の多い複雑な不整合面で境されている。

 このことから、葉山層群堆積後、逗子層堆積前に顕著な造山運動のあったことが読み取れる。この造山運動は第三紀中新世の初期に起こったもので、大八州造山運動、寄居時階の変動などと呼ばれているが、これらの名が示すように、この運動の影響は、当寺関東地方から遠く東北日本油田地域にまで及んだことが明らかにされている。影響のもっともいちじるしかったのは丹沢から三浦房総にかけての関東西南部で、ここでは断裂を伴ったはげしい地盤の隆起が起こり、その結果、それまで海底だったこの地域は反転して山となり、丹沢から房総に続くひとつの隆起帯が出現した。この運動はまたマグマの活動を誘発し、各地に深成岩の併入をみた。併入に伴って変成作用もおこなわれ、この地域のその後の地史に大きな変革をもたらしたことが知られている。

 この露頭はさらに、逗子層の堆積後にも造山運動のあったことを示している。この運動は、上に述べた造山運動ほど大きなものではなかったが、第三紀末における三浦半島地域の変動の性格を示すものとして注目に値する。

 このような理由で「鐙摺の不整合」は、地史的にみて大きな意義をもっており、したがってこの関係を示す本露頭の地質学的価値はきわめて高いものがあるといえる。
 斜交不整合の関係は、露頭における不整合面および基底礫層の存在や、不整合面を境にしてその上下両層における構造差などによって知ることができるが、この露頭は、これらを観察できる上に、上下両層とも傾斜している点で「斜交不整合」の典型的な露頭ということができる。その意味で教育的にみても貴重な資料と考えられる。

 以上の理由をもって「鐙摺の不整合」を示すこの露頭はを市指定の天然記念物とされることを望むものであり、十分に指定に値するものと考えられる。

(昭和47年7月28日付け 指定理由書)

※市浄水管理センター建設の際に磯の大半が埋められましたが、その一画を埋めずにプール状にして保存してあります。毎年草刈りや清掃などの整備をおこなっていますが、すぐに苔や落葉、草などに覆われてしまうため、はっきりと 地層面を観察することは難しい状況です。

31.神武寺周辺の岩隙植物群落(がんげきしょくぶつぐんらく)    沼間2丁目 神武寺

神武寺周辺の岩隙植物群落
 神武寺周辺の山地は、海底に堆積した泥砂が凝固した堆積岩(三浦層群)が隆起して形成されています。
 渓谷の斜面や切通しなど、岩肌の露出した日陰には、独特な植物が生育し、これらの植生を岩隙植物群落と総称します。特に、神武寺境内では、コモチシダ、イワトラノオ、ミツデウラボシなどの羊歯植物や、これらの羊歯類に類似した生き方をするイワタバコが常に生育し、この群落を特徴付けています。
 この群落は、乾燥しやすく水の確保が難しい環境下で、岩隙からにじみ流れる水分で生育しており、このような特殊な環境は、三浦半島では希少です。

 これら神武寺一帯の岩隙植物群落は逗子市文化財保護条例に基づく天然然記念物に指定されています。

この情報に関するお問い合わせ先

教育部:社会教育課

電話番号:046-872-8153


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