■池子遺跡群の発掘調査でわかった「池子」地域の歴史
【旧石器時代から縄文時代】 (およそ25,000年前から2,500年前頃)
およそ2万年前、最後の氷期をピークに地球全体が次第に暖かくなり始め、6千年ほど前の縄文時代前期には、現在よりも平均2度ほど温暖な気候であったと考えられています。そのため、大陸を覆っていた氷河が溶けて海に入り、1,000年間で10メートル以上も海面が上昇しました(これを縄文海進といいます)。
現在の神武寺駅の付近まで入江となっていたと推定されています。したがって、この時代の遺跡は、丘陵地に残されていることが多く、残念ながら丘陵の宅地化が進んだ逗子市内にはあまり残されていません。
池子遺跡群の発掘調査は、おもに低地部分で実施されたため、旧石器時代から縄文時代の遺物の出土はあまり多くありません。また、この時期
の住居跡などの遺構は検出されませんでした。
僅かながら確認された旧石器時代の遺物は、bP−A東地点の埋没谷で古墳時代の遺物に混じって出土したナイフ形石器1点のみです。丘陵上で狩りを行っていた人達が遺していったものでしょうか。
(写真左端)
縄文時代の遺物は、低地の自然流路から前期や中期の土器破片が少量摩滅した状態で出土したほか、丘陵寄りのやや高いところから、中期の土器破片が出土しています。縄文時代晩期から弥生時代の始めころになると、bP−A地点やbP−A南地点の旧河道の河底から土器破片が出土しています。




【弥生時代】 (およそ2,500年前から1700年前頃)
縄文時代から弥生時代への移行期(2千年から3千年前頃)は、再び寒冷な気候となった時期にあたります。縄文時代中・後期には、海面が急速に後退
して陸地化したところに人が暮らし始めました。 池子遺跡群では、弥生時代中期になって、人々の暮らした様子が顕著に認められます。
弥生時代は、それまでの狩猟・採集に代わって、コメの栽培が生活の中心になった時代でした。縄文時代の人々も植物の栽培を行っていましたが、 野山を切り開いて常設的な農地を開発するという考え方において縄文時代の人々と大きく異なり
ます。したがって、弥生時代には、水の確保しやすい川沿いの低地や谷戸の入口に近い台地に生活の拠点を置くようになります。
池子地域には、谷戸に沿って大きな川(幅5メートルから8メートル、最深3メートル程度)が流れていました。川に流れこんだ土のなかから多量の遺物が 出土しましています。また、川の周辺では、竪穴住居、掘立柱建物、墓などが見つかり、この川を中心とした人々の暮らしぶりがうかがえます。
そして、弥生時代の中期から後期に移り変わる頃、洪水と思われる砂礫で、この川は一気に埋没してしまいます。その後、古墳時代に新たな開発がこの地に及ぶまで、ひとびとの暮らした様子は見られませんでした。
〔弥生式土器〕
「縄文式土器は肉厚で装飾的、弥生式土器は薄くて簡素」というのが旧来の一般的な認識ではないかと思われますが、近年の研究により、地域性、多様性が明らかになるにつれ、縄文土器と弥生土器の区別は難しくなってきました。
縄文式土器と弥生式土器には、その製作技術の点で大きな違いはありません。粘土の紐を巻き上げ、または輪積みしてかたちづくり、縄や貝殻、竹管などで文様や赤彩を施します。ロクロも窯も使わず、それを野焼きにします。こうして焼くと、温度は600から800℃ほどの低温で、酸素が十分にあるので(酸化焼成)、明るい褐色になります。
しかし、農耕社会の形成や、アジアから移り住んできた人たちとの交流にともない、かれらの食生活や価値観 は変わっていきました。装飾的な要素の強い縄文土器に対し、「壷」形の土器に代表されるような実用性が重視されるようになったことも、その一端といえるでしょう。
弥生時代は、おもに土器の様式によって、前期、中期、後期に分けられますが、前期の様子はほとんどわかっていません。池子遺跡群では、南関東地方の弥生時代中期後半に位置付けられる「宮ノ台期」に
最盛期をむかえます。土器は、時期による変容のほか、その特徴に地域性も持っているため、人々の交流の様子を探るうえで有力な手がかりともなります。


〔開発や農耕の道具〕
弥生時代を特徴付ける道具のひとつに、大型の石斧が挙げられます。硬い石を丁寧に磨いてかたちづくった刃先(写真右)を木の柄に固定して、樹木を伐採したり、それを削って木材に加工していたのです。
弥生時代の農法がどのようなものであったのかは、まだわからないことも多いのですが、出土した農具から、その一端をうかがい知ることができます。池子遺跡群ではっきりとした水田址は見つかっていませんが、地層中の花粉化石分析などにより、イネ科花粉の増加が認められます。また、数多くの農耕具の発見からも、弥生時代中期にこの地で稲作がおこなわれていたことはほぼ間違いないと考えられます
。
弥生時代の旧河道からは、大量の木製品が発見されました。弥生時代中期後半の木製品は神奈川県内でも最初の発見例で、質、量ともに全国的にも代表的な資料のひとつに数えられています。
二千年前の木製品が、なぜ腐らなかったのでしょう。木や布などの有機物は、通常とても腐りやすいものですが、極端な乾燥あるいは湿潤など、良い条件が揃うと、保存される場合があります。池子
遺跡群の場合、低湿地であったことが幸いし、粘土層や水によって空気に触れない状態が保たれたため、たいへん良い状態で残っていました。
農耕具である鍬や鋤も多く出土しています。鍬は刃と柄が直角、鋤はスコップ状に刃と柄が真っ直ぐになっているものをいいます。鍬は刃と柄が組合せ式になっており、鋤は一木で仕上げたものと組合せ式のものがあります。刃先が分かれたもの、幅広のものなど、種類も豊富です。機織りの道具
も出土し、池子の人々が麻や木綿の布製の衣服を身につけていたことが明らかとなりました。
〔骨角牙製品〕
弥生時代には水田稲作が生活の中心になったとはいえ、それだけで充分な食糧が得られたわけではありません。縄文時代と同様に、狩りや漁、木の実の採集などもおこなわれていました。
鹿の角や動物の骨で作られたヤス、モリ、離頭モリ、釣針などの漁労具が出土しています。ヤスの突き刺さったイルカの頭骨も見つかっており、海獣や海の魚、貝、川魚など、多種類のものを捕獲していたことがわかります。
また、出土した獣骨から、鹿や猪などが狩猟の対象となっていたことがわかります。その肉を食すだけでなく、獣骨、牙、角は、狩猟具、漁労具、装身具、神儀具などとして利用されました。
弥生時代のひとびとの生活は、自然の力の影響を受けやすいものでした。豊かな恵みを祈り、自然や命を敬畏する呪術や祭りごとはたいへん重要であったことでしょう。
その証拠に、鹿や猪の肩胛骨を焼いて吉凶を占う卜骨(ぼっこつ)が数多く出土しています。農作物の豊凶や病気、晴雨など多方面にわたって占うものです。この風習は現代でも神社行事に残っています。


【古墳時代】(3世紀から7世紀)
弥生時代後期から古墳時代にかけて、ムラのひとびとをまとめる長たちは、盛り土をもった特別な墓をつくるようになりました。当時の指導者は司祭者としての性格を残していたといわれています。ひとびとは地域の長のもと、祭りごとをおこない、耕地として谷戸の開発を進めてゆきました。
池子遺跡群でも、古墳時代前期には調査区全体に人々の生活の跡が見られるようになります。弥生時代の遺構・遺物がほとんどみられなかった地点からも、多くの竪穴住居址・溝・土器溜り、多数の土師器や木製品などが出土しました。
古墳時代中期には遺構・遺物とも前期に比べて減少し、遺跡群の規模が一旦縮小されます。神奈川県内では古墳時代中期の遺跡数が減少し遺跡の規模も小規模になる傾向が今までの発掘調査で明かにされていますが、池子遺跡群でも同じ様な傾向が確認されました。
古墳時代後期になると、遺跡群全体で遺構の数・遺物の出土量が増加します。多くの掘立柱建物址が発見され、溝などの遺構から木製品や土器が出土しました。
池子遺跡群では古墳は見つかっていませんが、方形周溝墓と呼ばれる方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらせた墓が確認されています。写真のものは周溝が四隅で切れているタイプです。
盛土や主体部は、後世の削平などにより確認できませんでしたが、特定の人物やその近親者が葬られていると考えられます。まわりの溝からはたくさんの土器が出土しました。

この時代の素焼きの土器を土師器といいます。弥生式土器の流れをくむもので、屋外で薪を燃やして野焼きしたものです。酸素が供給される酸化炎燃焼(600〜800℃) で焼成するため、比較的硬く、赤みを帯びています。この後、数百年にわたり日常の器として使われました。
古墳時代中期、5世紀ころになると、中国や朝鮮半島から本格的な窯で焼く、須恵器の技術が伝えられました。ロクロを使い、登り窯と呼ばれる半地下式窯で高温(約1100℃)で焼きしめるので、還元作用により青灰色がかった硬質の土器ができます。 当時はまだ貴重品であったらしく、おもに祭りごとなどに使われました。


遺跡群の南側の竪穴住居址からは、銅鏡片や金属製品などが見つかりました。左から銅鏡、銅鏃、鉄鏃です。
鏡は重さ7.6グラム、3センチメートルほどの破片ですが、他の類例から推定して、右図のような直径10センチメートルほどの内行花文鏡と呼ばれるものと考えられます。竪穴住居址から鏡が見つかることは稀で、神奈川県で2例目です。
内行花文鏡は、中国の後漢で制作されたものが日本に持ち込まれ、国内でそれを真似て作るようになりました。関東地方の集落から出土する破鏡は日本製である場合が多いのですが、これは、鉛の含有量、厚さ、形態などから、中国から運ばれた舶載鏡だと思われます。
どのような経路を辿って、この鏡が池子の地まで運ばれてきたのか、たいへん興味深いところですが、この難問はいまだ解かれていません。
【古代(奈良時代から平安時代)】(8世紀から12世紀)
奈良・平安時代はおよそ8世紀から12世紀までの500年間です。中央政府のある平城京や平安京では律令制度のもと、政治・経済・文化の各方面で一定の完成を見た時代でした。しかし一方で、特に関東地方を中心に武士団が発生し、この新しい階級の足音は次第に中央政府を脅かすほどになっていきました。
当時、相模国には8つの郡が設置されました。池子地区は鎌倉郡に属し、鎌倉郡の郡衙(郡役所)は現在の鎌倉市御成町(今小路西遺跡)にありました。天平勝宝元年(749年)に郡衙を通じて朝廷に税として納められた布が今も東大寺の正倉院に残されています。そこには、この布が相模国鎌倉郡沼浜郷から納められたものであることが記されていました。
また、平安時代の『倭名類聚抄』には鎌倉郡に「沼浜郷」の存在が記されています。沼浜郷は現在の逗子市のほぼ全域に当たると推定され、沼浜の名は現在の沼間(池子の南東隣)にその名をとどめていると考えられています。
沼間3丁目遺跡群(菅ヶ谷台地遺跡 逗子市72 ・沼間ポンプ場南台地遺跡 逗子市37)では、 3.5メートルから4メートル四方の竪穴住居址が20数軒確認されています。市内で発見されている当時の集落としては規模が大きいことや、周囲に古代集落が点在することなどから、これまで、現在の沼間付近が郷の中心と考えられていました。しかし、この地域が標高の高い丘陵上であること、また、2001年7月〜2002年3月の調査で延命寺遺跡(逗子4丁目、逗子市110)から古代の建物址や井戸址が検出されたことなどにより、逗子市域の古代史観に新しい可能性が生まれてきました。



池子遺跡群からも竪穴住居・掘立柱建物・井戸・溝など、奈良・平安時代の遺構が見つかっています。住居址は約3メートル四方の正方形のものが多く、小さな谷戸やその出口付近から14軒ほど確認できましたが、大規模な集落ではなかったようです。
しかし、調査区南西部の埋没谷からは、和同開珎・隆 平永寳(皇朝十二銭の一番目と四番目)や鏡などの金属製品、木製の靴(木履・ぼくり)や馬の鞍の後輪(しずわ)などの木製品が出土しており、注目に値します。
鏡は、日本で作られた銅鏡で、草花八稜鏡と呼ばれるものです。たいへん薄く、背面の草花文はかなり磨耗しています。
木履は、全長25cm、内法22.5cmです。女性用でしょうか?
残念ながら片足分しか見つかりませんでした。
和同開珎は、神奈川県で6枚目、隆平永宝は7枚目の出土例になります。
また、位をもつ人が着用した帯金具の丸鞆(まるとも)や巡方(じゅんぽう)、墨書土器(文字が記された土器)なども見つかっています。
それらは官人に関係するものであることから、この時代の池子には、官人あるいはかなり有力な農民層が住んでいたと考えられます。


【中世】(12世紀から17世紀)
平安時代後期、東国では土豪たちが武士団として組織化され、力をもつようになりました。 12世紀末に源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、日本の政治は鎌倉幕府と京都の朝廷に二元化されました。
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた天然の要塞で、以後は武家政権の本拠地として発展し、13世紀中頃から多くの人や物資が流れ込んで都市としての隆盛を極め、1333年の鎌倉幕府滅亡後も関東経営の中枢として15世紀中頃まで栄えました。


また、現存する日本最古の築港址「和賀江島」は西国との交易の窓口として、多くの陶磁器をはじめとする物資がもたらされました。また、遠く朝鮮・中国(宋・元)へも通ずる鎌倉の玄関口でもあったのです。
中世の池子地域を物語る文献史料は少ないですが、戦国時代に後北条氏がまとめた『小田原衆所領役帳』によれば、何時の頃からか不明ですが、池子は鎌倉の泰平寺(太平寺)領であったことが、また近世には水戸徳川家ゆかりの英勝寺領として、他の村々とはやや別格に扱われていたことが知られています。
鎌倉時代の遺構や遺物はあまり多くありません。旧池子川の東側で、12世紀末から13世紀前半の柱穴群(掘立柱建物址群)、井戸址、溝状遺構などが見つかっています。
これらはいずれも規模が大きくない居住施設と思われますが、比較的暮らしやすい山裾の小高い部分を生活の場としていたことがわかります。
鎌倉時代の後半、13世紀半ば〜14世紀前半にかけては、明確な居住関連の遺構は発見されていません。
この時期、鎌倉市内においては膨大な量の遺構・遺物が発見され、都市として最も繁栄した時期ですが、ひと山を隔てただけでその様相は異なります。
【近世】(17世紀から開国まで)

中世の後半から各地で戦いが繰り広げられ、戦国時代とよばれる時代がはじまります。市域は関東の有力な大名である小田原の北条氏(後北条氏)によって支配されていました。 1590年(天正18)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、関東の大部分は家臣の徳川家康の支配下におかれました。
このころから、人々の生活もしだいに落ち着きを取り戻してゆきました。封建領主は検地を行い、村を単位として領地と農民を支配し、納められた年貢を基盤として、近世封建制社会を築いてゆきます。
秀吉の死後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を開いて全国を支配するようになりました。長い戦いの時代は終わり、この後約260年の間、幕藩体制とよばれる政治的に安定した時代が続くことになります。
近世は、封建領主の農民支配をはじめとして、支配階級のあいだで、多くの文書が作成された時代でもありました。地所を把握するための絵図、年貢の徴収に関する台帳、通知書から官僚間の伝達、報告、資料など、文書の量がそれ以前にくらべて飛躍的に増えました。
ここ池子にも『文禄の水帳』と通称される検地帳が旧家の石渡家に残されていました。領地面積の測量、家数・人口の調査、生産高などを記録したものが水帳、地検帳と呼ばれるものです。
池子村も、後北条氏の滅亡によって、泰平寺の寺領から徳川の直轄領になります。その後、 3代将軍家光の頃に鎌倉の尼寺、英勝寺の領地となり、明治4年(1871年)まで続いたと考えられます。英勝寺は水戸家ゆかりの格の高いお寺です。
同じく石渡家に伝わる「相州三浦郡池子村絵図」は『水帳』とともに、池子の近世を考える上でたいへん重要な文献資料です。これらをはじめとする近世文書の詳細な研究と、池子遺跡群の発掘成果を相互に照らし合わせてゆくと、池子に暮らした人々の生活の変遷を具体的に垣間見ることができるようになってきました。
それらの文献資料に基づいて、慎重に発掘調査をすすめると、調査区中央部の1-C・1-E・5・7地点から、集中的に近世の建物址が見つかりました。
そこからは陶磁器をはじめとして、木製品や漆製品などの遺物がたいへん豊富に発見されました。
下の写真は、1-E地点出土の近世陶磁器です。皿・小鉢・徳利・盃などの食器類、灯明皿、香炉・仏飯碗などの仏具類、擂鉢などがあります。磁器は、肥前系、陶器は瀬戸・美濃系の製品が多く、日常使いの器が中心ですが、天目・織部・志野織部・黄瀬戸など、茶器の類も少量出土しています。
中世末に登場した家々は、その後、近世から近代にかけて多少の変化を見せながらも代々営まれ、昭和の接収まで続いたものと見られます。 

【近代・現代】
池子地区は昭和12年(1937)に旧日本帝国海軍の弾薬庫として接収が始まり、戦後は引き続きアメリカ海軍が使用してきました。1978年に弾薬庫としての役目を終えますが、 80年に米軍家族住宅の建設予定が公表されると、みなさんご存知の通り、 15年間に渡って容認・反対の住民運動が続きました。
1994年に緑を守る約束で合意し、現在に至っています。60年もの間、一般の立ち入りが厳しく制限されていたため、発掘調査では明治から海軍接収までに渡る近代の遺構・遺物が多く発見されました。弾薬庫造成にともなう大量の排出土に埋もれて、接収直前までの人々の生活のあとがほとんど破壊されることなく良好な状態で保存されていたのです。
発見された遺構は建物址・井戸址・道路状遺構・旧河道・畝状遺構・墓地・溝などです。
近代の建築物は周辺の岩盤から取った切石や土丹(どたん・岩盤を砕いたもの)を利用して造られているのが特徴です。
建物址の基礎に切石を礎石としているもののほか、建物の形にあわせて方形に溝を掘り、そこに土丹を敷き詰めているものもあります。明治から昭和初年頃まで、この地域によく見られた建物の基礎構造で、土丹地業と呼ばれています。
近代の遺物は、特に建物址周辺と旧河道の中から大量に発見されました。これらの遺物の多くは、海軍接収直前まで池子で暮らしていた人々の日常生活に使われた道具でした。
ハーモニカや三角定規・コンパス・紙挟みといった文房具類、、櫛や簪(かんざし)・眼鏡のフレームなどの日用品、ガラス製品(インク瓶・目薬の容器など)、陶磁器類(徳利・茶碗など)、ガラス製の石蹴り玩具、陶製の人形など、多くの遺物が出土しました。


