2003年ピースメッセンジャー〜被爆体験講話〜

山脇佳朗さんによる被爆体験講話

浦上川の川べりに人々が折り重なって死んでいた。真黒いゴム人形のようにふくれ、皮膚に触れるとベロリとむけた。私たちは木片を拾い集め、爆死した父の遺体を焼いた。足首を舐めていく炎を見つめていたら涙があふれた。11歳の夏。

2003年(平成15年)8月21日
長崎原爆資料館学習室

山脇佳朗さんによる被爆体験講話

私は当時、新興善国民学校6年生で、夏休み中でした。長崎に最初に爆撃機がきたのは1944年の夏だった記憶があります。しかし、それから1年くらいは攻撃を受けることはほとんどありませんでした。ところが、原爆投下2週間前の7月くらいから急に小型機による攻撃が増えました。そこで母がとても心配し、原爆投下の前日に小さい子供を佐賀の実家に預けに行きました。

  原爆投下の当日、自宅で目を覚ましたのは、父、14歳の兄、11歳の双子の兄弟という4人でした。父は会社へ、兄も軍需工場へ行き、家に残ったのは11歳の双子の兄弟だけでした。

  父や兄が出かけた後、B29の編隊が九州に侵入し、空襲警報が鳴りましたが警戒警報に戻ったので、10時半頃から縁側で配給された米をつきはじました。11時少し前にお腹がすいたので、奥の茶の間に入り座ったその時「ピカッ」と光りました。あと数分縁側にいたら熱線や爆風でかなりの被害を受けていたはず。本当に運が良かったです。家を揺らすような音がきこえて、頭とか背中とか体中に瓦とか壁土とか落ちてきました。しかし、記憶では以外に長くは続かなかったと思います。近所の人がざわめいているのが聞こえ、顔を上げると家の中の様子は一変していました。壁は崩れ落ち、見上げると空が見えた。立とうとすると、壁や柱にはガラスがたくさん刺さっていました。お父さんが早く帰ってこないかと思いながら防空壕へ入りました。

原爆は上空500mの所で爆発しましたが、地上では推定3,000度から5,000度あったと言われています。この上空で原爆が炸裂すれば私たちは一瞬のうちに黒焦げになってしまい、次の瞬間爆風で吹き飛ばされてしまうでしょう。

原爆は3度人を殺したと広島のある大学の先生が言っていました。熱線、爆風、放射線。爆風は2km離れた私の家でも台風の風よりも強い秒速72mで、爆心地ではいかにひどいものだったか想像できると思います。放射線については58年経過した今でも甲状腺ガンや白血病など放射線特有の病気で苦しみながら亡くなっていく人が絶えないことを知っておいてほしい。

私たちはそういうことも知らずに庭の防空壕で待っていました。するとお昼少し前に兄が帰ってきて3人で父の帰りを待っていました。工場の責任者なのでこれまでも小さな爆撃でも帰ってこないことがあったので仕方がないと思いながら待っていましたが結局帰ってきませんでした。夜が明けると隣組の人が無神経な話をする。原爆が投下された浦上地区は全滅したと。不安で父を迎えにいくことにしました。爆心地に向って歩いているとは知らず。

歩きだすと被害がひどくなる一方で、電柱や街路樹は立ったまま焼け、電線は垂れ下がり、住宅は皆焼け落ち、道路にはガレキの間に真っ黒い人たちがごろごろ転がっている。川の向こうの工場は大きな柱だけ残してあとはつぶれている。小さな橋まできたら3人が立ちすくんでしまいました。私たちを迎えるように欄干に沿って真っ黒い人たちが倒れていました。渡り始めると両側から声をかけられそうで、一つ上流にある橋を渡ろうと見ましたが爆風で橋は落ちていました。仕方がなくこの橋を渡りはじめましたが、川を見るとゆっくり流れている川のなかにもたくさんの人が浮いていました。その中でも若い女性の姿が目を引きました。黒いモンペを履いて白いブラウスを着ていましたが、自分の後ろに長く白い帯びを引いていました。腹帯がとれて流れているのかと思いましたが、よく見るとわき腹が破れて飛び出した腸でした。気持ちが悪くなり足早に橋を渡りました。川を渡り小道を歩きましたが、そこにもたくさんの人が折り重なって亡くなっていました。近くで見ると、顔はパンパンに膨れ皆真っ黒焦げ、髪はちりぢり、洋服は真っ黒。白い目と歯だけが私たちを睨んでいるように見えて、小学校6年生の私にはとても恐かった。踏み越えていこうとしましたが道中に倒れていて、少しでも触れると熟した桃の皮をむくようにペロッと黒い皮膚がめくれる。それがとてもかわいそうであり、また、気持ち悪かった。

会社に向って走りました。すると焼け落ちた工場にスコップを持った人が3人見えたので兄が「山脇ですが、お父さんどこですか」と言ったら、1人が「工場長はあそこで笑っておられますよ」といったので、良かった、来た甲斐があったと思い、指差された所にいきましたが、そこで見たものは、他の人たちと同じように膨れて亡くなった父の遺体でした。口元に笑みを浮かべているようにも見えました。自分の父ではないと思いながら、しかし、見れば見るほど自分の父でした。3人とも呆然として声が出ませんでした。そこにスコップを持った人たちが寄って来て、父を連れて帰るならここで焼かなければ駄目だと言われました。工場の焼け跡から木々を集めて父を載せ、父が見えなくなるくらい木々をたくさん載せて火をつけました。夕方だったので、明るい炎が上がりました。それに向って私たちは拝みました。拝み終わって見てみると炎から父の素足が出ていました。それがかわいそうで仕方がありませんでした。
最後にお願いしたいのは、
1.広島・長崎の生々しい被害を過去とは考えないで欲しい。            
2.若いうちに58年前に終わった戦争にいったいどういうことがあったのか自分の頭と目で確かめて欲しい。

どうすれば残酷な核兵器を地球上からなくすことができるのだろう。
どうすれば戦争を地球上からなくすことができるのだろう。
そのためには自分たちに何ができるのか考えられる人間になってほしい。
山脇佳朗さんによる被爆体験講話

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