被爆証言 田栗さん

   私は長崎で被爆した田栗という者です。 当時19歳の学生で、福岡県久留米市の学校の寮にいました。両親は長崎市の爆心に近い松山町に住んでおり、父は三菱兵器製作所で働いていました。
 

  長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日の翌日、私が久留米で見た新聞には「落下傘つき新型爆弾が長崎に投下されたが、損害は軽微である」ということでした。そこで私は長崎の両親宛に「無事でしたか」と見舞の葉書を出して返事を待ちました。しかし返事が来る筈はありませんでした。「損害が軽微でない」ことが伝わってきて、私が長崎に向け久留米を発ったのは8月13日の夜でした。
 

  夜行列車に揺られて8月14日朝、私は浦上駅に着きました。子どもの頃から見慣れた金比羅山、岩屋山そして稲佐山も美しかった緑がかき消されて、すべて茶褐色に焼けただれていました。
 

  浦上駅から松山町まで約1キロ余りの途中の家はすべて焼き尽くされ、瓦礫の道を歩きました。原爆が落とされてから5日が過ぎていましたので、人間の死体はほとんど見当たりませんでしたが、馬や犬の死体が道端に散乱していました。それらの死体は縫いぐるみの玩具のように、ふくれ上がり、足を宙に向けて横たわっており、異臭が鼻をついていたことを忘れることができません。
 

  一面の焼け野原のため、何処に私の家があったのか判りませんでしたが、隣が郵便局でしたので、傾いたポストがあり、このあたりに私の家があったはずだと推定することができました。しかし、それ以上に何の手がかりもありませんでした。その後、父が働いていたと思われる三菱兵器大橋工場、そして市内の親戚など両親の消息を尋ね歩きましたが、何も判りませんでした。
 

  焼け跡で偶然会った小学校の友達が言った言葉、「この辺にいた者は全滅だ」という言葉だけが耳に残りましたが、私には両親が必ず何処かで生きていると思われてなりませんでした。
 

  翌日もまた私は家の焼け跡に行きました。そして両親の手がかりを求めて、焼け跡を掘りました。8月の灼熱の太陽が照りつける中で懸命に掘りました。「あった!」それは見慣れた父の茶碗でした。壊れていましたがその絵柄は確かに父が使っていたものでした。何故か生きている父に会えたように嬉しく思いました。これが最初の両親の手がかりでした。これに力を得て、堀り進みました。そして遂にみつかった人骨。真白に焼けて、太陽の熱で温まっていました。忽ち1人分位の人骨を拾いました。それは私の家の台所の近くでしたので、母の骨に間違いないと思いました。そしてやはり母は此処で死んだのだと観念しなければなりませんでした。今爆心の碑が建っているところから、約50m位の所です。
 

  母のものらしい骨を拾ってから私は父を探し歩きました。長崎市内、諫早、島原など、風の便りを手がかりに知人宅などを尋ねましたが、確かなことは何も判りませんでした。今も片足鳥居が建っている山王神社の近くの三菱兵器で爆死したのではないかという噂を頼りにそこで荼毘に付された遺骨の中から1体を戴いて帰りました。
 

  私は原爆で両親を失いました。しかし、私の小学校の友達の中には両親と兄弟幾人かを失った人が何人もいます。そして、それらの人の中には今もその苦しい体験を話したがらない人がいます。
 

  皆さん想像してみてください。親兄弟の中、1人が亡くなっても悲しいものです。まして1度に数人の親や兄弟が亡くなることはどんなに悲しいことでしょう。
 

  私は今78歳です。後どれ位こんな話をすることができるかわかりませんが、何も話すことができないまま死んでいった人々、そして、今も話したがらない友達の分まで、その人達にかわって原爆の非人道性を訴え続けたいと思っております。
 

  最後に私が所属しています逗子市被爆者の会で作りましたリーフレットを読みます。

  知ってください原爆が人間にもたらしたものを、聞いてください被爆者の願いを。
 

  原爆は、広島と長崎を一瞬にして死の街に変えました。赤く焼けただれてふくれあがった屍の山。眼球や内臓がとび出した死体。黒焦げの満員電車。倒れた家の下敷きになり、生きながら焼かれた人々。髪を逆立て、ずるむけの皮膚をぶら下げた幽霊のような行列。人の世の出来事とは到底いえない無惨な光景でした。
 

  わが子や親を助けることも、生死をさまよう人に水をやることもできませんでした。人間らしいことをしてやれなかったその口惜しさ、つらさは、生涯忘れることができません。
 

  いったんは死の渕から逃れた人も、また、家族さがしや救援にかけつけた人たちも放射能に侵され、次々に髪が抜け、血をはいて、たおれていきました。

  生き残った人たちも「原爆」を背負い続けています。広島と長崎の両市合わせて死者約20万人、その約3分の2は子どもとと女性、年寄りでした。そのうち約4割は未だ行方不明のままです。
 

  何千年の人類の歴史の中で、これ程大きく、悲惨な出来事があったでしょうか。
 

  原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しませんでした。核兵器はもともと、「絶滅」だけを目的とし、人間性を無視した狂気の兵器です。人間として認めることのできない非人道的な絶対悪の兵器なのです。
 

  私たち被爆者は、原爆被害の実相を語り、苦しみを訴えてきました。身をもって体験した”地獄”の苦しみを、2度とだれにも味あわせたくないからです。「ふたたび被爆者をつくるな」は私たち被爆者のいのちをかけた願いであり、訴えです。

 

 

 

 

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