被爆証言

  昭和20年8月9日午前11時2分、私は旧佐賀高校1年の動員学徒として長崎北方約30kmの川棚海軍工廠疎開先工場で魚雷の部品を運んでいた。その時原爆の閃光を目にし、さらにドーンという音を聞き、ついで長崎と思われる、南の空高くきのこ雲がわき上がるのを見た。
 

  広島が新型爆弾でやられたことは聞いてはいたが被害の程度ははっきりわかっていなかった。長崎もその新型爆弾だろうと心配しながらも被害の状況を確かめようもなかった。
 

  ところが、宿舎に帰ったとたんに「長崎へ救援隊として急行せよ」とのことで、その日の夜私達動員学徒約200名は海軍の人達と一緒に上陸用舟艇で川棚から大村湾を南下し、時津港に上陸、浦上近くの三菱兵器住吉町地下工場に辿り着いたのは翌日の午前2時頃だった。途中長崎方面より歩いてくる人々に会ったが、着物は焼け落ち、髪はばらばら、怪我は手当することなく、裸足のままで歩く姿は真夜中のことなので男女の区別もつきかねる程だった。町の中心部に近づくにつれ樹木や電柱は中心部に向いた方が焼けて燃えくすぶっており、道路わきには人馬の死体も散見されるようになった。これは大変なことになったと思いながらトンネル工場の機械の間で暫し仮眠をとった。
 

  翌朝は早くから救援活動を開始、夜の間はよくわからなかったが爆心地に向って行くとその惨状は目をおおうばかりでとても筆舌に尽し難いものだった。見渡す限りの焼野が原、瓦礫の山で、道路そばには人や馬の死体がごろごろ、特に馬の死体はガスが充満しハチ切れんばかりになっていたのには言葉も出ない程であった。
 

  救援活動では、負傷者の救出と手当を担当することとなり、2人か3人でチームを組み、火傷用の薬と包帯をもって爆心地附近を一日中歩き回って数多くの負傷者の手当をした。
 

  負傷者といっても殆ど瀕死の状態でその人達の「熱い、早く手当をしてください」、「水、水を飲ましてください」という声が何十年も経った今でも耳に残り、忘れようとしても忘れることが出来ない。「瀕死の人に水を飲ませるとそれが引金になってすぐ死ぬ」と聞いていたが、残り少ない水筒の水を飲ませたものであった。しかしその後はこちらも飲み水がなく、「水、水」の声に何もしてやれなくて身を切られる思いがした。こんな状態の中で持参した薬品類は1日で全部なくなり、翌日からは負傷者の運搬、死体の火葬、埋葬の仕事を日没まで続けた。作業を終え暗くなって帰る頃、あちらこちらで火葬の赤い炎、青い炎がたちあがっているのが妙に美しく感じられたのはどういう心理状態だったのか今もってわからない。
 

  とにかく救援作業中の状態はこれまでの想像を絶するものでまさに真夏炎天下の地獄絵そのものであった。
 

  後にして思えばこの原爆で佐高出身で長崎医大在学中の先輩50余名が犠牲になられたのであるが、その当時はそんなことを知る由もなく、ただ無我夢中で頑張ったものだった。同窓会名簿には、この犠牲者の方々は単なる「死亡」でなく、「原爆死」と明記してあり、その頁を見るたびに今でも心が痛む。
 

  また、出身中学の先輩、同期生で長崎医専在学中の数名も原爆の犠牲者となられた。いずれも優秀な人達で前途有望な身を一瞬にして奪われてしまった。私にとって身近なこれらの人々、さらにすべての原爆犠牲者の方々に対し合掌してその冥福を祈るのみである。
 

  足掛け5日間の救援作業を終え8月13日夜川棚着、翌々日の15日は終戦の玉音放送を聞いて口惜しさと安心感が入り混じりしばらくは放心状態だった。
 

  家に帰ってから約1週間は原因不明のひどい下痢に悩まされた。後で級友に聞くと同じ症状がおこり、白血球が急激に減少した為、一時休学のやむなきに至ったものもいた。
 

結婚後、妻に長崎での救援活動、二次被爆のことを話したところ、私の後遺症や子どもへの遺伝についての精神的負担や苦痛は大変なものであったとのことである。
 

   幸いにして子ども3人を無事出産、その後順調に成長したものの、やはり同じ心配や精神的苦痛は尽きることなく、今度とも原爆の影響を考えると憂うつでならない。
 

  被爆の状態は極めて悲惨であり、救援作業も非常に苛酷な状況にあったが、その中でも心和むことがいくつかあった。
 

  その中の1つ、8月9日真夜中、時津港に上陸し爆心地に向けての夜間行軍、疲労と眠気のために声もなく黙々と歩いていたが、たまたま私達の隊列には若い海軍軍医が入り私達を「医者の卵」と思ったのか、親しげに学生時代のことや軍医の任務のことなどを話し、「大変なことになったがお互いにしっかりやろうや。」と激励されたことは今でも忘れることが出来ない。
 

  その2、救援作業3日目、私は許可をもらって長崎市内の探訪にでかけた。市内には親戚が3軒あり、その安否を確かめるためだった。幸いにして親戚の家は爆心地をはずれた南部地区にあったのでいずれも皆無事であり、突然の訪問を心から喜んでもらった。そして「あまりにも大きな被害を受けた地元の人々は呆然自失、何から手をつけたらよいかわからない位打ちのめされている。こんな時に他地区からの救援活動は本当にありがたい。よく来てくれた。ありがとう。」と何度も礼を言われた。
 

  その3、救援作業最後の日、川棚海軍工廠長官が救援作業の視察と激励に見えられ、私達に対し「こんなひどい作業をさせたのに皆さん達は頑張ってよくやってくれました。厚くお礼申し上げます。」と深々と頭を下げてお礼の言葉を述べられ、寸志としてウイスキー2本を頂いたとの事である。私はその場にいなかったが後でそのことを聞いて5日間の苦労や疲れも一度に吹き飛ぶような気がした。
 

  しかしこのような出来事やささやかな喜びも、原爆被災や救援当時の事を思うと忽ち雲散霧消し、あらためて原爆の悲惨さが思い知らされる今日このごろである。
 

  また、毎年、大船観音寺の原爆被災者慰霊祭に参列した時には、亡くなられた方々へ手を合わせ、「核兵器もない、戦争もない、平和な世界」を祈り、また長崎の平和公園及びその周辺を訪れた時は、50数年前の「その時」を思って、鎮魂、慰霊の念を強め、無核、平和を念じ、そのための行動を起こすことを誓っている。

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